[コメント] ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
元ネタはオフ・ブロードウェイで稼ぎまくったらしいが、映画には向かない…とまでは言わないが、デビュー作でコレを持ってきたジョン・キャメロン・ミッチェルの無謀さが際立つ造りをした映画だった。ミュージッククリップなら始めにそれと言って逃げてくれれば良かったのに、私は映画を鑑賞する感覚で見たので、凄くつまらないまま過ぎ去った貴重な時間が惜しい。
近年の映画を見ていて感じるのが、「“一つのアイデアだけで”勝負に走りすぎる」だ。アイデア勝負に走るのはいい。それは映画自体がアイデアの塊であり、実社会もアイデアで成立しているから、それは全く否定しない。だが“一つのアイデアだけで勝負”はダレるし、見ていて辛いし、いらぬお節介で「一つのアイデアしか出せないのだなぁ」となり作り手の才能の枯渇が凄く早く訪れるだろう姿を想像し、自分よりもその監督の行く末を心配してしまう。
この作品の場合、「舞台でヒットした」という付加価値を最大限に利用し、「舞台でヒットした作品」という“一つのアイデア”を長く使いすぎた。トドメに“以前使用した”という強調が先頭に来る。文句なしに「文学作品の原作から原作に忠実に映画を作っても面白くない」に直結するぐらいの衝撃があり、ウンザリするぐらい日常であれどこであれ、いくら面白い話をされたところで「前に○○○から聴いた」や「前に○○○でヒット」な事が情報としてあれば冷めるし、面白くない。それと同じ。
『ヘドウィグ・アンド・ザ・アングリーインチ』、舞台では表現しきれない部分の補完に終始したままに時間が過ぎ去った映画に幸あれ。『ハリーポッター』などの原作の補完映画又は原作の説明映画と変わりがないし、厳しく言うと、文学を舞台にすり替えた原作頼みのオリジナリティが小さい映画では、私の体内で感動は産まれない。
2003/1/4
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