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[コメント] 昭和残侠伝(1965/日)

この記念すべき第1作目は珍しくも敗戦直後の闇市を舞台にしている。だから見えてくるものがある。衝撃だった・・・任侠映画っていったい何なんだ?
sawa:38

健さんのいる神津組の若衆たちも招集され、幾人かは戦死したという。梅宮が演じる特攻隊「零戦の五郎」も池部も健さんも、運良く生き残った復員兵である。

このシリーズはもとより、「任侠映画」全般につきまとう「死の美学」という言葉がある。それは「男」であり「義理」であった。

しかしこの第一作を見て思う。健さんと池部はいったい「誰の為」に死にに行くのか?そして「何の為」に死ぬのか?

明治・大正・昭和初期を舞台にした任侠映画は数多いが、本作の敗戦直後という舞台設定を見せられてガツンときた。衝撃だった。

特攻隊で死んでいった若者たち、彼等は「誰の為」「何の為」に死にに行ったのか?「陛下」「国」「親」「家族」「愛する人」・・・堅い信念を持って逝った者、迷いを持ったまま逝った者、仕方なく逝った者・・・彼等の手記を読むにあたり、正直いって混乱する。

本シリーズの健さんと池部はまさしく特攻隊であろう。生還を期すこと無く、敵の親玉目がけて斬り込んでいく。

だが、この第1作目の舞台設定を見て、彼等が特攻隊とは決定的に異質である点に気が付く。特攻隊の若者たちはその目的が失礼な見方だが「漠然」としているし、それによって起こる結果も「漠然」としている気がしてならないのだ。敵の空母を沈めれば、それだけ「国」への脅威が遅れる、そして「愛する人」が助かる道が開ける。

それに対し、本シリーズの健さんと池部は明確な目的を持っている。「誰の為に」:困っている堅気の皆さんの為に敵の親玉へ向かっていく。その為ならば、結果的に愛する人が不幸になろうが仕方がない。「何の為に」:誰かがその礎にならなければならないのならば自分がやるしかない。親玉を殺れば確実に状況は好転する。そこには絶対的な平和が待っているのだ。

かつて特攻隊のほとんどは失敗し、敵艦に体当たりすることが出来ずに海の藻屑と消えていった。結果的に彼等の崇高な魂と貴重な肉体は状況を好転させる事は出来なかった。

このシリーズはある意味、特攻隊を礼賛しているのかも知れない。だが、私は思う。これは特攻で散っていった若者たちに対しての鎮魂歌であると同時に、「漠然」とした目的と「不本意」な結果に終わった若者たちの行為はけっして無駄ではなかったんだという事を、健さんと池部の行為を借りて代弁しているんじゃないだろうか。

殴りこみも良くないし、戦争も良くない。どちらもけっして良い事ではない。だが結果として街にも国家にも平和が訪れた。戦争に生き残った彼等が、死んでいった者に対しての贈る言葉なんだろうなと感じた。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ハム[*] ねこすけ[*]

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