[コメント] 博奕打ち外伝(1972/日)
定型の悪役を不在にした事で成立する究極の「義」の世界観。奴も「男」、彼も「男」。どちらにも共感出来るが故に「悲劇」が生まれ、私の中のちっぽけな「義」が目覚める。(同性愛への扉を開く一歩手前の男汁か?)
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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「将軍」と呼ばれた映画監督が自らの手で「任侠映画」への新境地を開き、そして従来からの「任侠映画」へ決別した作品である。
従来の「任侠映画」のパターンである「善玉やくざ対悪玉やくざ」という図式はリアルではなかった。悪玉とされた側も彼等なりの事情があり、悪玉から見れば善玉こそ悪であろう。
本作では河津清三郎や天津敏といった御馴染みの悪役俳優は使わずに、松方弘樹を登場させて悪玉側の行動論理を冷静に描いてみせた。鶴田浩二の論理が「義」ならば松方弘樹の論理は「忠」であり、それは高倉健のそれと同義である。
どちらの側にも「信義」があり、それでも山下耕作監督は「和解」というエンディングは用意しなかった。そればかりか殺される事を容認したかのような若山富三郎と彼を刺殺する鶴田浩二の双方ともに「ヒーロー」としては描いていない。そこにあるのは不条理な「任侠」の世界であり、いってみれば従来の「任侠映画」を完全否定するかのような「リアル」な世界を描いていたのだ。
これは「任侠映画」で飯を食ってきた山下耕作が自らの手で決別宣言を下した作品である。時あたかも藤純子引退の年で「任侠映画」の終焉を迎えた年である。
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