[コメント] 思い出のマーニー(2014/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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世界的に名の売れたジブリだが、その最大の功労者は、『となりのトトロ』(1988)にほかならないだろう。日本の一地方を描いただけの作品とはいえ、世界的な映像文学となったのは、もちろん宮崎駿という希代の監督あってのことだが、これが徹底して児童向けに作られた作品であることが一番の強味だった。優れた児童文学は大人が鑑賞するにも十分耐え、幅広い顧客を得ることが出来るのだから。
世界的なトトロのヒットの原因は、それこそ山ほど挙げられるだろうが、そんななかで、これも一つの原因と思われるものを挙げてみたい。
それは“イマジナリーフレンド”というやつ。これはつまり、想像上の友達という存在。
日本でもこどもにしか見えないキャラというのは座敷童など童話や民話でいくつか言及されているが、海外ではこれはこどもの発達段階で必要な存在として結構研究もされている。それが顕著なのが児童文学。海外ものの童話では結構な確率でイマジナリーフレンドが登場している。有名なところでは「赤毛のアン」なんかは、アンは常にイマジナリーフレンドを侍らせ、時に現実の人間にその役割を担わせているし、広義では「あしながおじさん」なんかも一種のイマジナリーフレンドとして考えることができよう。映画でもこどもが想像の翼をひろげてイマジナリーフレンドを呼び出すシーンはいくつもの映画で観ることが出来る。
海外では結構メジャーな存在だが、日本では直接的にイマジナリーフレンドを扱った作品はあまり多くない。強いて言えば魔法少女もので、主人公に魔法を与えてくれるマスコットのような存在とかくらいか?(実は「ドラえもん」という最強のイマジナリーフレンドが日本には存在するから、それで直接的なジャンルは発展しないのではないか?と友人と話したことがあるのだが)。
だが、そのイマジナリーフレンドを直接扱うことができれば、世界的なメジャーとなることも出来る。それを示してみせたのが『となりのトトロ』だったのではないだろうか。あまりにストレートなので、「こんなジャンルがあったのか」という驚きで受け入れられ、更に海外ではなじみ深い作品としてあっさり受け入れられてしまった。
つまり『となりのトトロ』とは、これまで日本では誰も作ってこなかったジャンルの作品だったということになる。そして何故かそれを狙って作られた作品って、他にあんまりない。いくつかはあっても、やっぱり捻りが入っているので、ストレートに「これ」というのが言いがたいものばかりだ(近年では『ももへの手紙』(2012)が一応それに入るか)。
そしてジブリの新しい監督として台頭した米林監督だが、敢えてこのジャンルに挑もうとしているかのよう。『アリエッティ』に関して言えば、アリエッティではなく翔少年の方に視点を合わせれば、アリエッティの存在はイマジナリーフレンドそのものだし、本作にあっては、更にストレートにそれを作ってみせたところに特徴がある。杏奈にとってのマーニーは、まさしくイマジナリーフレンドそのものだ。敢えて先達に同一ジャンルで挑もうという姿勢は実に素晴らしい(ジブリの中にいるからこそ出来る挑戦と言えるかもしれないけど)。
本作と『トトロ』との共通項を少しだけ挙げてみると、一つには主人公の友達が主人公以外には見えてないが、それでも“何かがいる”ということを劇中の何人かの人物が薄々感じている部分とか、田舎の地に足の着いた生活の中で、都会の子が何を受け取るかとか、生活共同体の中で、子どもと老境に達した人物とのふれあいがあるとかがあるが、中でも一番重要な部分は、現実にちゃんと帰ってこられるという部分が強いかと思う。
イマジナリーフレンドを描く場合、実はこの部分がとても重要。現実にはいない存在を友達にしていることから、そのまま夢の世界に入り込んで現実から離れてしまうパターンと、イマジナリーフレンドに励まされることで、現実を受け入れるパターンに分かれていくわけだが、この二作はそこにちゃんと着地点をもってきている。
『トトロ』の場合は、その部分については暗示だけで、これからもサツキとメイは田舎生活の中でトトロと一緒に過ごすように暗示されているものの、本作では杏奈のイマジナリーフレンドは、実は既に亡くなった杏奈の祖母であることが分かり、そこで杏奈とマーニーとのつながりは消えた上で、杏奈は育ての親をはっきり「お母さん」と言っていることから、杏奈にとってはマーニーとの出会いが現実との接点を持たせることとなっていっている。
この着地点に至る過程が実は本作の最大の見所であり、そのためにストーリーが作られていると言っても良い。
本作における杏奈は、当初現実を受け入れられないキャラとして描かれている。札幌では「イタい子」として同級生から共通認識されているし、この町に来ても、自分を過度にかまう同世代の子をなじって逃げてたりもする。それは持病の喘息が理由なのか?あるいは複雑な親子関係からくるものか?そう含みを持たせておいて、そこから始まったマーニーとの関係は、杏奈にとっては現実から逃げるための手段となっていく。
ここで物語は、徐々に杏奈がマーニーへと傾倒していく形を取る。安奈本人もこれが非現実であると感じていても、そちらの世界へと自ら入り込もうとしていく。
幽明境を異にするではないけど、このままストーリーが進むなら、物語がホラー調になっていき、杏奈は現実に戻ってくることができなくなる(そういう物語をジブリが作ったら、それはそれで面白かったんだけど)。
しかしマーニーは杏奈のすべてを受け入れる存在ではないことがだんだん分かってくる。時に杏奈を置いてけぼりにし、時に全く違う名前で杏奈を呼ぶ。そして杏奈もマーニーが実は過去現実に存在した人物であることが分かってくることで、少しマーニーと距離を置くことができるようになっていき、更にマーニーという存在を知る人との交流を深める中で、マーニーがこの世界の中で何を考えていたのか?そのことを考えることで現実に目を向けるようになっていく。逆にマーニーという存在が杏奈にとっては、現実を発見するために必要になっていくのだ。
そして最後。マーニーという人物像をはっきり知った時、杏奈は完全に現実へと戻ることが出来た。
杏奈が世界を拒絶していた理由は、この世界に自分の居場所がないと思っていたからだった。その理由は自分は祝福されて生まれてこなかったということ、今の育ての親も、自分自身が必要なのではなく、そこから与えられるお金が目的なのではないか?という疑心暗鬼からくるものだったが、その根底には、「自分は祝福されて生まれてきたわけではない」という強い思いがあってのこと。杏奈自身が世界を拒絶しているのではなく、世界のほうが自分を拒絶しているからと思うことによる。
それは結局「私は本当に愛されているの?」という疑問に帰着する。
最終的に、マーニーは自分の祖母であり、事故で死んでしまった両親に代わって、最初に自分を愛してくれてた存在だった。そのことを知ることで、杏奈にとって、世界は、自分をちゃんと受け入れてくれるものであるということを知るに至る。これによって世界を肯定的に受け入れることが出来るようになったために、人に目を向けることが出来るようになった。ここが重要なポイントだった。
イマジナリーフレンドを扱った作品で重要な点は実はここにある。いつか空想の友達はいなくなるが、それは自分がこの世界を受け入れることが出来るようになるから。そのポイントを押さえた物語となっている。
だから本作は実にオーソドックスな物語だ。だが、そのオーソドックスさこそが本作の本当の良さとも言える。オーソドックスに着地させられたことに、心からほっとした。
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