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[コメント] 夕陽のガンマン(1965/伊=スペイン)

これぞマカロニの醍醐味って奴ですね。レオーネ無しに今の映画は語れません。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 『荒野の用心棒』(1964)、本作、そして『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』(1966)の三作はマカロニウエスタンを確立し、更にイーストウッドを一気にメジャーに押し上げた作品だが、この三作の関係は結構複雑。そもそも一作目の『荒野の用心棒』に対して本作は続編に当たり(本作の原題は『Per Qualche Dollaro in Piu』で「もう少しの金のために」という意味で、『荒野の用心棒』の『Per un pugno di dollari』(「一握りの金のために」)に対応している。一方邦題で『』と出ている『続・夕陽のガンマン』は物語としても設定としても違っている。いずれにせよ、イーストウッドの様々な側面の魅力が語られているので、一括りにしても問題はないか。

 それに本作ではリー=ヴァン=クリーフが珍しく主役の側で登場。イーストウッドに負けない魅力を放っているのも特徴だろう。マカロニは初期に二人のスターを生み出したと言うことになる。特にオープニングシーンの立ち居振る舞いは明らかにイーストウッドよりもクリーフの方に重点が置かれている。今回はイーストウッドが若いガンマンの役割に徹しているので、どっちかというと跳ねっ返りの若造を見守っている大人の役割をうまく果たしていた。バディ・ムービーっぽくしたのは『用心棒』(1961)に対する『椿三十郎』(1962)を意識してのことかも知れない。

 マカロニと正統派の西部劇の大きな違いは歴史にある。アメリカで量産されてきた西部劇は、これまでのアメリカのフロンティア精神の表れであり、自分たちの父祖がどれだけ苦労して不毛の大地に根を下ろし、そしてアメリカという国を作り上げてきたかを殊更強調する傾向にある。つまり歴史の浅いアメリカという国が必要とした神話を作り上げてきたという点にある。いわば、大地が先ずあって、そこにドラマを付けていくのが正統派の傾向。一方、本作を観ても分かるように、マカロニの特徴としては、歴史を必要としない。男がいて、そこから物語が始まる。あくまで主体は人であり、そこに歴史は必要ない。低予算だからこうせざるを得なかったという点はあるにせよ、これが強烈なキャラクタの魅力へとつながっていくのだ。

 その強味を遺憾なく発揮できたのがレオーネ監督の素晴らしい所で、彼なしにマカロニウエスタンは無く、同時に後の映画にこれだけ影響を与えることも出来なかっただろう。

 本作は強烈な二人を観てるだけで充分という感じの作品だが、それに被さるエンニオ=モリコーネの音楽が見事なほどにはまっている。冒頭の大佐登場シーンは見事だが、中盤のダレ場も音楽でフォロー出来ていた。音楽も重要な事を改めて再確認。

 一方、物語として観る限りは、本作は少々難点がある。やってることが行き当たりばったりの感があるし、最後の大佐とインディオとの確執も唐突すぎる。しかも物語が無駄に長い。途中に長いダレ場があるので、もうちょっと絞れたんじゃないか?設定においてはいわんや…まあ、その辺は言わぬのが華か。それがレオーネの魅力でもあるのだから。

(評価:★4)

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