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[コメント] ドッグヴィル(2003/デンマーク=スウェーデン=仏=ノルウェー=オランダ=フィンランド=独=伊=日=米)

人間の汚い部分を正面から描くラース・フォン・トリアーにしか作れない作品。(2004.02.22.)
Keita

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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 トリアー節が全開な作品だ。誰もやらない手法で映像を撮ってるだけ、無理やり衝撃的にしている、という批判もあるかもしれないが、それこそがラース・フォン・トリアーという監督の持ち味なのだ。おそらく、この映画を撮れる監督は他にいない。唯一無二のスタイルである。実験的な試みに溢れ、人間の汚らしい部分をここまで露骨に表現するには、かなりの勇気が必要なはず。そんな挑戦を成し遂げたトリアーは正直恐ろしいほどである。

 黒い床に白い線で区切られた街。そこには壁が存在しない。壁がない世界では、どのシーンにおいても、背景にシーンとは関係のない人物が映っていなければならない。ニコール・キッドマンをシャロウ・フォーカスで捉えていても、背景にはクロエ・セヴィニーフィリップ・ベイカー・ホールなど演技派の俳優たちが何もしないまま映っていなければならないわけだ。もちろん、演じる方にとっても過酷である。だが、トリアーという監督は容赦なく過酷な行為を行なった。

飛行機嫌いのトリアーが、自らが行った事のない国・アメリカを描く上で採用した黒い床と白い線は、この映画においてはこれ以外に考えられない設定なのかもしれない。壁のない世界で、全てを見透かす「神」の目となるカメラの存在。カメラを通して観客が見る映像は「神」が見る世界であり、観客は「神」となり全ての人物の一部始終を見下ろす。賛否両論必死の衝撃的なラストシーンでは、「神」である観客が、映画自体に、そしてラース・フォン・トリアーに裁きを下すことになる。

 私は映画のラストで“賛”の判決を出した。ドッグヴィルの村人を通して徐々に表面を表してきた人間の憎悪を、ラストシーンで怯むことなく爆発させた。建物が存在しないこの映画だが、建物を破壊するインパクトのある映像なしにして、ドッグヴィルを壊滅させるという衝撃を描ききった。その衝撃は、まさに今まで積み重なった人間描写から生まれるもの。あるときは調子よくもてはやし、あるときは憎悪をむき出しにする人間の姿。暴力には暴力で仕返しをする報復の恐怖。権力という力の乱用。それらが人間の一面であることは否定できず、現にそれらが原因で紛争が世界各地で起こっているわけだ。

ニコール・キッドマンが首輪をつけて演じるという悲惨な姿や、白い線が消えて黒い床だけになったドッグヴィルに残ったのは犬1匹という結果から、「人間は犬以下だ」という挑戦的なメッセージが受け取れる。人間には美しい部分ももちろんあるが、『ドッグヴィル』が謳う人間の汚い部分に対しては頷いてしまう説得力がある。前代未聞の実験的な手法に加え、人間には悪い部分もあるということを容赦なく描いたトリアーの力は、賛否はともかくとしても評価に値するものである

(評価:★4)

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