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[コメント] オーロラの彼方へ(2000/米)

♪あんなこっといいな、でっきたらいいな♪を追求するB級映画ほど痛快なものはない。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 拙『バック・トゥ・ザ・フーチャー2』評を見てくださったフランチェスコ・ザ・トッティー・フリーク様が、ご親切にもメールをくださり、この映画を見る機会を持てた。

 フランチェスコ様が教えてくださった通り、『バック・トゥ・ザ・フーチャー』のマーティーが何ら体現しなかった、過去の変化に伴う現在の自分の変化がちゃんと起きていたのは、特筆に値する。惜しむらくは、やはり途中で無理が出てしまい、結果的に中途半端になってしまったことか。これ以上複雑にしたって、娯楽映画として混乱するだけなのかも知れないので、あれ以上深く突っ込まなかったのは正解だったのかも知れない。

 論理的に考えれば、記憶が二重になるというのは、苦しい辻褄合わせでしかない。そして、論理的に突き詰めたら、この場合、過去への介入は絶対的に不可能だ。

 まず、息子と父がオーロラの発生を介して、時空を越えた交信を果たす。

 息子の助言により父親の死が回避される。

 これは、しかし、むしろ息子にとって、極めて劇的な過去への介入であったために、まず、先の交信を果たしたその瞬間に辿り着ける様な人生を、息子がそれから送れる可能性は限りなくゼロに近くなる。つまり、父親の死が回避された場合、息子は、全く別のルートを辿り、99年に向かうことになるのだし、その場合、もともと辿ったルートは、存在しなかったということになる。

 また、そもそも、記憶が二重になりうる論理的根拠は何もない。記憶が根であり茎であるとするなら、茎も根も、種子なくして育つはずがない。父親の死が種子だとするなら、その種子のない記憶は絶対に存在しえないと言うことだ。

 さて、ここでほとんど交信の可能性はたちきえるのだが、その別ルートが、仮に何らかの偶然で、“父親との交信”に辿り着いたとしよう。

 しかし、その場合、息子は父親に翌日彼を待っている運命を伝えることは出来ない。当然である。そんな記憶はないのだから。

 すると、皮肉なことに、息子が父にその運命を伝えられないが故に、父は、翌日、運命の通りに死を遂げてしまうことになるのであり、父が死ねば、逆説的にもともとのルートが、息子に復活するのである。

 このように、地獄巡りのループの中、よしんば交信が可能であっても、息子は父親を絶対的に救えないのだ。

 この映画はリアリズムの破綻を覚悟し、設定が持ちうるテーマを忘却し突っ走ったB級だったからこそ暖かいのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)フランチェスコ[*]

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