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[コメント] それでも、愛してる(2011/米)

一見、躁鬱病患者の人生について真摯に捉えた脚本のように見えるが、真剣にこの病の発症を考え、怖れている人々にとって、この奇妙な治療法が功を奏するわけがないのは自明の理だ。そしてもうひとつの問題点がある。
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







改めて書くが、例えばこれはビーバー人形の形をとった主人公の躁意識が、鬱に支配された本体に発破をかけている状態なのだろう。それはそれでいいのだが、主人公と家族の仲を修復にみちびき、経営する会社を発展にいざなったのはあくまでビーバーという人格ではなく、主人公の一部だということは疑う余地もない。ゆえに主人公にとってでき得ることに成功したのだから、当然それ以上のことはできようはずがないのだ。そこを見誤らなければ、ウォルターという人間の可能性の泉を汲み尽くす行為を描くのが中盤くらいまでの物語であり、この行為が無理をはらんでいることは誰にでもわかる。

自分はファンタジー映画だと迂闊にも信じて見続けたのだが、そんな設定でなければこの話はあまりにも突飛で非現実的だ。それゆえ、ウォルターが家族に再び見限られ、会社をも破滅に巻き込んで自壊してゆく過程の描写は胸糞が悪くなる。これは水を汲もうとしてザルを見つけ、それで水をたっぷり汲んだつもりでいる人物を見せられているに等しいからだ。

そんな主人公の空回りの外に、もうひとりの主人公としての長男がいる。彼はもとより父を尊敬するのに疲れ、今はさげすんでいるが、ひとりの少女との接触によって総てに絶望か希望かの二者択一ではない立場をとる思考法を学び、そして父を救う。ここは佳い。しかし、そうならばなぜ父の虚しい努力は描かれ続けたのか。もとより父を救う立場にいて、父の行動とは交わらない日々を送った彼の、その暮らしを描けばすむことではないか。全くの道化であった父が、ただ哀れでならない。左手と、もっと大事な誇りを失うことは、「それでも愛して」くれる人々を認めるラストへの代償としては重過ぎるだろう。

それゆえ、二度目のナレーション「これは、ウォルター・ブラックの物語」という句が、いやに無神経に響いたのが残念ではあったのだ。

(評価:★2)

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