[コメント] 幸福なラザロ(2018/伊=スイス=仏=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
映画のラザロも狼(=神)によって蘇る。しかし仲間の反応は、「奇跡だ!」と言いながらも、それでオワリ。皆は自分の生活で忙しく、かまっていられないのだ。
キリストの時は蘇りによって、その名が近隣諸国まで広がり、救世主として決定的になったのと比べて、何ともさみしい(もっともキリストは皆を連れて墓地で蘇らせるという演出をしているので比べられないのだが)。
皆の消極的な反応。その村人の表情の変化について、触れる。この映画で一番悲しかったのは、昔の人々は文句を言いながらも大いに笑っていた。が現代の人々は、どの場面でも心からの笑いが無い。皆な心の余裕が無くなったのだろう。
映画でも出て来る銀行が悪いのか?いや銀行は仕組みであって、個人主義を尊重するあまり自己責任が増えた、のが悪いと思う。しかし、後戻りは出来ないのだ。
誰も奇跡を信じず、信心もうわべだけのものになった。人によって作り出された神は、人によって消去されようとしている。映画の狼も、自動車であふれる都市道路を、逃げ惑うばかりだ−居場所を求めて。
原題の ‘FELICE’ は‘幸福な’ と訳しているが、嬉しい、楽しいという意味合いだ。嬉しいラザロ。楽しいラザロ。
映画のラザロは、どうもうすのろにしか見えない。そこで作者としては、彼はそうではないのですよと、あの音楽のエピソードを付け加えた、のかもしれない。がこのエピソードが全編で一番良かった。
顔をしかめて、笑いをなくした現代の人々は不幸なのかもしれないが、幸福に至る道は、ラザロが指し示している、という1つの解釈はどうだろう?
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