コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ダーティハリー(1971/米)

十字。銃。対象との「距離」と、それのゼロ化がもたらす倫理的緊張。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画については、蓮実重彦の論(『映像の詩学』)や、それを踏まえたと思しき万田邦敏の論(『映画の授業』)に於いて既に肝心なことは語られ済みな気がするが、一応それらを下敷きに僕なりに論じたい一点がある。それは、水飛沫や砂埃による「距離」の撹乱だとか、上下の運動の頻出だとか、上述の論で取り上げられている主題は全て、結局は「銃」というものに集約されていくのではないかということだ。

その話の前に、まず万田氏の指摘でなるほどと思ったのは、本作では十字架ないしキリスト教的なものが何度も登場しているという点。言われてみれば、スコルピオ(アンディ・ロビンソン)がハリー(クリント・イーストウッド)に刺された脚を治療した病院での聞き込みのシーンでも赤十字が見えるなぁ、などというのは序の口で、僕が驚いたのは、万田氏の言う通り、スタジアムでハリーがスコルピオを拷問するシーンでも、一瞬十字架が現れていたこと。それは、ハリーに命乞いするスコルピオを捉えたカットで、芝生に引かれた白線が、フレーミングによってちょうど十字の形になっている箇所があるのだ。

そうした宗教的なイメージの反復から推察されるのは、本作が罪と罰に関する倫理的な問いを内包しているのだろうということ。まず冒頭シーンでスコルピオは、望遠レンズ越しに標的を狙って仕留めており、対象との「距離」によって自らは隠れつつ、十字型の標準を通して「銃」によりその距離を無効化する形で相手に死をもたらしている。ハリーが登場するカットで「CLINT EASTWOOD」の名が現れ、彼が被害者の遺体の傍から向かいのビルを見つめる姿に重ねて「DIRTY HARRY」の文字が現れる。オープニングクレジットのシーンは、そのハリーが向かいのビルへ向かい、スコルピオが残した手紙を見つけて「ジーザス」と呟くところまでだ。つまりハリーがスコルピオとの距離を埋めて、「ジーザス」の名を口にするところで終わるという、本作の主題が端的に表されたシーン。本編で頻出する、俯瞰や仰角のショットも既に挿入されている。

実際にハリーがスコルピオとの距離をゼロにするシーンは三度ある。まずは、電話ボックス巡りをさせられたハリーが十字架の前でスコルピオに蹴りまくられるシーン。ハリーが走らされている間、相棒のチコ(レニ・サントーニ)は無線によって状況を窺いつつ「距離」を保って車で併走していたが、そのチコがスコルピオと銃撃戦を展開した後、ハリーは隠し持っていたナイフでスコルピオの左脚を刺すのだが、彼自身も、銀行強盗との銃撃戦で右脚に負傷している。スコルピオが怪我の痛みに呻きながら逃げる様と、負傷したハリーが必死で追う様が交互にカットインするシーンには、二人の鏡像関係が感じられる。実際この二人は、法を侵犯し、銃によって距離を征服する者としての共通性がある。

ハリーが次にスコルピオとの距離をゼロ化するのは、スタジアムのシーン。まず、ハリーを見つけたスコルピオの眼差しが闇に浮かび上がるカットが強烈だ。「闇」は、スコルピオのそれに似たスーツケースを持った男をチコと追うシーンや、電話ボックス巡りのシーンなどで、曖昧な「距離」そのものの気味悪さのように画面を充たしていた。スタジアムでハリーは、遠くのスコルピオに向けて発砲するが、そのカットでの、ハエ叩きに叩かれたハエのように跳ね上がるスコルピオの小ささ。「殺さないでくれ」「弁護士を呼んでくれ」と必死で訴えるスコルピオの、自らの弱さの主張によって法の保護下に入ろうとするグロテスクさ。負傷した彼の脚をハリーが踏みつけ、スコルピオの苦痛と、ハリーの苦悶がそうさせたかのように上昇し後退するカメラ。闇に浮かぶ孤島のようなスタジアム。

結局、続くシーンでハリーは、少女が遺体で発見される光景を、高所から見下ろすという形で、「距離」の囚われ人となる。犯罪者スコルピオとの距離を埋めることは、ハリー自身による法の侵犯を意味することになる。故に、ハリーが得た証拠は無効となり、スコルピオをストーキングするハリーの行為にイラついたスコルピオは、殴り屋に頼んで、ハリーが自分との距離を不法に侵犯したかのように見せかける。ハリーによるストーキングのシーンで、まず公園にスコルピオが現れるカットでは、壁の落書きと同じピースマークをスコルピオが腰に着けている。このマークも言わば十字のバリエーションだろう。バーのシーンでは、外に出たスコルピオが歩くカットと、ハリーがその後から歩いていくカットが、同じように撮られている。犯罪者を追う行為を解して、犯罪者と半ば同化していくようなハリー。この追跡自体、非番の日に行っているのだ。つまり警察とは関係が無い。

結局ハリーは最後には、冒頭のスコルピオ同様に、銃殺した相手を水中に沈めることになる。これが最後の「距離ゼロ」のシーン。正義の執行の徹底が、法の侵犯と同じ地点に立つという結末。ハリーが警察バッジを水面に放り投げるのも必然だろう。このラストシーンでもやはり、水に浮かぶスコルピオを見下ろすショットと、それを見下ろすハリーを仰角で捉えたショットが挿まれ、ラストカットは、ハリーの姿が殆ど点のような人影になってしまう俯瞰ショット。ハリーが放ったバッジが水中に没する「ポチャン」という小さな音が哀しい。

ハリーが「距離」を埋めることで成功するのは、飛び降り自殺をしようとする男を救出するシーンだけだろう。ダーティな刑事ながらも見事な仕事ぶりを見せる銀行強盗鎮圧シーンで見せていた余裕の表情と比べて、同じく「punk」に撃つか撃たないか選択させる台詞を吐きながらも、スコルピオに対する際は、その表情が殺気による鋭さを隠し得ないものとなっている。

ところで、遠く離れた二人の間に「銃」によって行為の主体と客体の関係がもたらされるということは、カッティングによって二つの画を繋ぐ「映画」というものそのものではないか。実際、銃が介在しなければ不可能なカッティングというものがある。その一方、本作は、飯を食いながら背後の銀行の様子を主人に尋ねるハリーや、ハリーが銀行強盗に「よく考えろ、今日はついてる日か?」と訊ねるシーンでの、強盗が銃に手を伸ばすカットに、拳銃を持ったハリーの手の影が見えること、バスジャック・シーンで橋上のハリーの姿がフロントガラスに映り、スコルピオの表情と同居しているカットなど、カッティング以外でも絶妙な「距離」を演出したワンカットが見られる。

ハリーの相棒が彼の巻き添えを食って危険な目に遭うのは、後のシリーズ作も同様だが、信頼関係という意味では、この第一作こそ最も苦い後味の残る作品だろう。チコは、初めてハリーの前に現れたときには、下から睨みつけるような眼光を放ち、いかにも大学出といった様子の容姿と相俟って独特のインパクトを与えてくるのだが、スコルピオに撃たれた後にハリーの見舞いを受けるシーンでは、その眼光が全く失われている。だがハリーは、彼の転身を、或る意味では当然のこととして静かに受け入れるのだ。

ハリーは終始、喜怒哀楽いずれの表情に於いても大きな感情表現はせず、そのことによって却って、その顔貌に厳しさ、苦渋、諦念等を強く滲ませる。尤もそれはイーストウッドの演技の特徴でもあるだろうが、本作では、最も穏やかな表情を見せるのは、「punk」呼ばわりして騙した銀行強盗犯に見せる悪戯っぽい表情くらいだ。

一方のスコルピオは表情をコロコロと変え、その、幾らかベビーフェイスな顔には、邪悪な無邪気さとでもいったものが浮かぶ。特に、二人目の被害者として狙った黒人をいったん見失ってから再び見つけた際の笑顔や、スタジアムでハリーに対して被害者ぶって泣き言を並べるシーン、殴り屋の黒人に、もっと殴れと促すように人種差別的な言葉を投げかけるシーンでの、打撃によって歪んだ顔、バスジャックのシーンで、泣き出した子どもたちに「歌え」と強制して陽気な歌を黒々とした声で歌う姿など、どこか脆弱さや無邪気さを装うときほどグロテスクなおぞましさが発揮される。そのノッペリした顔面から噴き出す狂気。

十字架と銃という象徴的なイメージによって、暴力と倫理の緊張関係を描くというテーマは、後のイーストウッドの監督作の多くに見られる傾向。その意味では、『グラン・トリノ』のような作品で、老いたイーストウッドにハリーの面影を見てとるのも、あながち間違いとも言えない。

因みに、スコルピオのモデルと云われているらしい連続殺人犯ゾディアックのシンボルマークは、劇中のスコープの標準やピースマークとよく似ている。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。