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[コメント] パッション(2004/米)

露骨なまでに即物的な苦痛の描写が、却って肉体に対する精神の勝利を浮き彫りにする逆説。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







情け容赦なく繰り返される、陰惨な暴力描写。鞭打ちシーンは本当に、見ているだけで苦痛で、正直なところ、ここまで残虐に振る舞う人間と同様、その暴力を甘受してまで自分の主張を撤回しないイエスの方も、ヘロデ王が言うように、一種の「狂人」なのではとさえ思ってしまう。しかし、彼が荊の冠を被せられ、十字架を背負わされて歩き始めた辺りから、その姿の崇高さに打ちのめされてしまう。「ユダヤの王」を名乗った罪で、処刑されようとするイエス。「私の王国は地上には無い」と言い、「主は第一の奴隷なのだ」と言う彼が、地上の権力によって苛まれつつも、非難も抗議もせず、ひたすら耐え続けるその姿は、まさに王者。地上の権力は、支配下にある人間に対し、肉体的、精神的苦痛を与え、究極的には死を与える事で、地上の秩序に従わせようとする。だが、もしそうした屈辱や痛みにも押しつぶされずに自らの信念を貫徹する人間がいたとすれば、その人間は、何者にも魂を支配されない存在だと言える。神官たちや群衆が、執拗にイエスに痛みを味わわせようとする、その憎悪の理由もまた、イエスがそうした意味で真の王者であるからだという見方も出来るだろう。

民衆が、下劣な人殺し(劇中のバラバという男)よりもむしろ、一切の権威を退け、地上の権力よりも上に立とうとするイエスに対して、より執拗な憎悪の感情を露わにする場面は、印象的。イエスが、病人、娼婦、貧者といった、社会から卑しめられた人々と交わり、彼ら以上に卑しめられて十字架にかけられた事を思い、また、古今東西あらゆる社会が、何らかの形で排斥され、貶められる犠牲者を生み出している事を思えば、イエスの「私の血と肉によってのみ、神の国に入る事が出来る」という言葉は、現代人にとってもアクチュアリティの有る言葉だと言えるだろう。

「主は第一の奴隷」。この言葉を、イエスを殺せと叫ぶ群衆に抗しきれず、彼らの意思に従わざるを得なかったローマ総督ピラトの姿に重ねてみれば、同じ言葉が、王を名乗って処刑されたイエスとは、全く逆の意味を持つ事に気づく。ヘーゲルは「主人は奴隷の奴隷であり、奴隷は主人の主人である」と言ったが、ピラトはこの、奴隷の奴隷の方なのだ。

十字架を背負って、処刑場へ向かうイエス。その彼の元へ思わず駆け寄る母マリア。この場面に挿入される回想シーンが、あざといと言えばあざといのだけど、そんな思いも消え去るほど強烈なインパクト。道で転ぶ、幼いイエス。それを見て、手に持っていた器を落とし、駆け寄ろうとするマリア。そんな、ちょっとした事でさえ母を心配させるような、弱い幼子だったイエスが、人類の罪の全てを背負おうとして、散々に鞭打たれた体に残った力を振り絞り、非難の声と、唾を浴びせかけられながら、十字架を背負って歩く。この短いシーンで、成長したイエスの内なる精神力と、マリアの、子を思って嘆き悲しむ心境とが、同時に伝わってくる。十字架を背負うイエスも苦痛を耐え忍んでいるのだが、愛する子の苦痛をただ見守っているしか出来ないマリアもまた、イエスに匹敵する力強さを持った存在として浮き彫りにされる。

マリアが目を見開いてイエスを見守る目線は、カメラを通して観客の方に向かう形となるが、それはまるで、イエスの姿に同情しているつもりの観客に対して、そんな同情で感じている苦痛など、彼女の感じていたであろう苦痛と比べれば、無に等しいのだと、無言の内に告げているかのようだ。

と、上述の辺りの場面では、本当に、胸の前で十字をきりたくなるほど、強く惹きつけられたのだけど..、最後のイエス復活の描写は、やや唐突な感が。それまでは概ね、禁欲的なまでのリアリスティックな描写に徹していた映画が、急にハリウッド映画に逆戻りを始めたようで、違和感を憶える。「不死身のヒーロー」のように復活するイエスの姿は、却って、死に至るまでの受難の崇高さを打ち消してしまったような印象さえ受けた。このような奇蹟や、イエスが苦痛に耐え続ける事の根拠のようなものは、キリスト教徒には当然の大前提なのかも知れないが、非キリスト教徒に対して説得力を持つには、あまりにも説明不足なのでは。イエスという一個の人間の物語としては、これほどの崇高さに達した作品は他には無いのではと思えるほど素晴らしいのだけど、あまり神の存在を感じられるような映画ではない。以前、『エクソシスト』を観た時には、神の力のようなものを感じたのだが…。結局この作品は「徹底的に受動的なヒーローによる、ヴァイオレンス映画」とも言うべき、反ハリウッド的かつ半ハリウッド的なレベルの出来に留まってはいる。だが、所謂“芸術映画”では描かれ難い、身も蓋も無い暴力の酷薄さを描いた点は、貴重な業績として記憶されるべきだろう。

“移ろいゆく個々の生とは違う、普遍的な生を意味する‘永遠の命’という言葉は、イエスの弟子たちによって、‘個人の不死’への信仰へと曲解された” “キリスト教は一つの実践であり、信仰の教義ではない。それが教えるのは行いの在り方であって、これこれを信仰せよという事ではない。‘兵役を拒否する’‘法廷など気にかけない’‘警察の奉仕など求めない’‘私自身の心の平穏を乱す事は、何一つしたくない。それゆえ、私がそのせいで苦しむ事になるとすれば、苦しみにもまして私に平和を与えるものは何も無いのである’と、今そう言う者が在れば――彼こそキリスト教徒である” (フリードリッヒ・ニーチェ)

(評価:★3)

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