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[コメント] ファクトリー・ガール(2006/米)

無軌道さを軽薄に楽しみながら、中身の無い煌びやかさに耽溺していく連中のアーティストごっこが延々と続く前半に「クソ映画か?」と思いかけるが、徐々にその空虚さそのものが、一つのウォーホル論、映像論に結実していく展開に、納得。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まさに「工場」で自動的に生産されたようなスーパースター、イーディ。彼女が「身近なものに価値を与えるのよ」と評するウォーホルは、キャンベルスープの缶のイメージをただ複製・反復する事でアート化したように、ただそこに居るイーディをフィルムに収めてアート化する。

イーディが青年歌手から「君は缶のように中身が無い」と言われるのも、映画撮影中に自身の「中身」、家族や過去の事を訊かれたイーディが逃げ出すのも、表層のイメージの領域でしか、彼女には価値が無いからだ。

母から「痘痕だらけ」と言われる、醜く白っぽい肌のウォーホルは、たまたま見かけた女たちから美を採集し、作品として利用する。

イーディの運命は、写真、映画、フィルムに翻弄される。騙されて連れて来られたイーディは、青年歌手との写真を撮られ、二人の熱愛を報じた新聞記事が、ウォーホルとの距離を生じさせる。だが、実際に恋人となったその歌手が別の女と結婚したのを知るのも、新聞の写真なのだ。

イーディがニューヨークに移る直前、かつて美大に通っていた際に、男友達に撮られた写真。その、朗らかに笑うかつての自分の姿が、ウォーホルに見捨てられて何もかも失ったイーディに、改めて提示される。そこでこの男友達は告白する、「君に惹かれていた」。ウォーホルによって「スーパースター」にされる以前の、素のままのイーディにも愛される価値があったのだ。フィルムに映るのは、被写体と、それを見つめる撮影者との関係なのだ。

(評価:★3)

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