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[コメント] 我が至上の愛 アストレとセラドン(2007/仏=伊=スペイン)

ユニセックス(unisex)と、唯一つの(unique)愛。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ドルイド教の僧侶アダマス(セルジュ・レンコ)がレオニード(セシル・カッセル)に語る、アストレ(ステファニー・ド・クレイヤンクール)とセラドン(アンディ・ジレ)のなれ初め話によると、神話を女性たちだけで再現する劇に、セラドンが少女の振りをして役者として参加し、そこでアストレの裸を見たのだという。この、女装という倒錯に加えて、そもそも彼が貰ったパリスの役は、本来は娘が男装して演じる役であり、それを、女装したセラドンが「男装」して演じるという、二重の倒錯。

小屋に引きこもりがちになったセラドンに会いに行ったアダマスの、「お前の顔立ちは私の娘に似ているのだ。私の慰めのため、会いに来させてくれ」という言葉もやや倒錯的な匂いを感じさせるが、寺院をアストレらが訪れた際にはセラドンに、女装して彼女に会うという、無謀なまでの策を勧める。取りようによっては、アダマス自身がセラドンの女装姿を見たかったのではないかとも思えてしまう。「髭は薄い方ですが…」と気にするセラドンに、飲んでいる間は髭が生えない薬を使えと助言するアダマス。だが、セラドンは確かに優美な顔立ちではあるものの、その顎は男性的で逞しい形。それに気づかない振りをして演じられたシーンの数々は倒錯的であると同時に、いかにも艶笑譚風な滑稽さを感じさせる。

ラストシーンでは、女の振りを続けるセラドンがアストレの服を着てみせて、その姿のまま彼女と愛撫し合う中で「胸が無い」とアストレに気づかれて大団円、という呆気ない幕切れになるが、この「恋人の服を着る」という行為は、セラドンの兄リシダス(ジョスラン・キヴラン)が、唯一人に心を捧げる愛について語った時、道化者のイラス(ロドルフ・ポリー)から「愛することで自らが愛する人になれるというのなら、お前がフィリス(マティルド・モスニエ)の服を着てみせろ」とからかわれた言葉の、言葉通りの反復である。

全篇に渡ってイラスの台詞は、「アストレとセラドンの愛」という主題へのアンチテーゼ、「より多くの人を愛するべし」という恋愛観を、彼なりの理屈で謳いあげるもの。その彼のからかいの言葉通りの絵づらでありながら、「唯一人への愛」の復活を示してもいるあのラストは何か。アダマスはセラドンに、ドルイド教では神は唯一であり、ローマの神々も、唯一神のそれぞれの形での表れとして崇められていると語っていた。つまり、多神教は一神教の「表現」なのだ。そこに、「多数への愛」が「唯一人への愛」に収束することと相通ずる構図を見てとることが出来るだろう。

アストレもまた、イラスがリシダスとの議論の中で口にした言葉、「肉体は精神の道具だと言うなら、心だけを持っていけ!私は肉体の方を愛する。どちらが満足を得るだろうな」をアイロニカルに反復する。セラドンがアストレを想って造った女神の祭壇を見て、彼が生きているのではないかと言うフィリスに対し、アストレは「そんな希望を抱いて、やはり彼が死んでいたなら、彼を二度失うことになる」と拒絶する。フィリスは「彼の死によって愛が永遠になることを慰めに感じているのでは?」と問うが、それはまさに、肉体の死によって、セラドンの心だけを持っていこうとするアストレの態度を的確に指摘している。

セラドンがアストレの前に姿を現さないのも、彼女に「二度と姿を見せないで!」と命じられたのを忠実に守っているが為。この言葉も、反目し合う親の目をくらます為に、別の異性を愛している振りをしようと二人で決めた通りにした結果、アストレの嫉妬を招くという、これもまた倒錯的な経緯があった。

裏の裏は表といった意味での、倒錯の倒錯による円満な解決。この、殆ど幾何学的なまでの整然とした筋書き。ラストカットの呆気なさにも、「Q.E.D.(かくして証明は為された)」と告げるような簡潔さが漂う。ロメールには、そうした図式に自らを預けることへの嗜好が感じられる。映画冒頭での、ロケ地に関する律儀な断わり書きにも、或る時代なり風景なりに埋没したいという彼の欲望を感じる。ぬけぬけと絵画に役者を投じてみせた『グレースと公爵』と同様だ。

(評価:★4)

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