[コメント] ニュールンベルグ裁判(1961/米)
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裁判後に、終身刑を言い渡されて収監されているヤニングと、その判決を言い渡した裁判長ヘイウッドが向き合う遣り取りはこの映画の白眉だろう。だが、それに先立ち、それに匹敵する印象を残してくれるのは、ヘイウッドがベルトホルト夫人と食事をする場面。ナチスの将軍だった夫を処刑された夫人は、裁判で検事が上映したユダヤ人虐殺の記録映像について「彼お好みの残酷博物館」とか何とか言った後、自分の恨みについて「生きていく為には、忘れなければ」と言う。その瞬間、打たれたような表情のヘイウッドへのズームイン、酒場に響く陽気な歌声、それに合わせてテーブルを叩くビールジョッキ。ホロコーストの様子を見た後では、夫人やドイツ人達が、忘却を糧として前を見ようとする姿は、忘却という名の第二の虐殺のように思えてしまう。それを打ち消すように法廷でヘイウッドが打つ槌を捉えたショットが、あのビールジョッキのショットに連動し、かつ抗うように挿入される。こうした瞬間的な名演出が、幾つかの場面で光る作品。
だが、論理以上に声の張り具合を競っているかのような、やたらと叫び続ける法廷劇の演技や、生硬なズームインの多用など、全体的には緩急の付け方に不満も覚える。加えて、「判事が判事を裁く」事の意味、「法を越えた正義を証明し得るか」といった問題、戦勝国が敗戦国を裁くという力関係、選挙で選ばれた権力者(この場合ヒトラー)が定めた法の範囲で為された行為を、他国が法で裁く事の正当性は、といった課題には充分に答えておらず、ヘイウッド個人が、東西対立という政治的状況に逆らって、ドイツ側への政治的配慮抜きに判決を下し得るか、という内面の葛藤に問題が置き換わってしまったのには違和感を覚えた。
とはいえ、彼が判決に先立って行なう演説、「国の危機にあっては卓越した個人でさえも不正を犯し得るという事」に続く言葉「何の為の生存か」という問いかけは、今だ古びていない。
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