[コメント] ここは退屈迎えに来て(2018/日)
成田凌が淡い失恋の重心となって構築される青春の仮構じみた追憶は、ロードサイドの閉塞と関連を持たないように見える。失意の体系に組み込むには嘘臭い橋本愛のかわゆさはロードサイドから浮いている。
にもかかわらず、なぜロードサイドなのか。最後に到達されるユートピアが実存した安らぎには、作り手と受け手の共犯関係がうかがえる。映画の関係者もメインの消費者もあの東京の眺望の前にいる。閉塞したロードサイドは語り手と作り手の境遇を肯定するツールに過ぎない。ただ、ロードサイドの規格化された町並みと対比される東京の眺望は、事物性の暴力的な力で有無を言わさず、ユートピアの安らぎに信憑性を付与する。
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