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★3 | 書かれた顔(1995/日=スイス) | 歌舞伎をフリークショーとしか解せないドメスティックな脊髄反射に文化相対の作法はとうぜん反発する。クロスジャンルは越境ではなく漂流の結果であり、その弛緩に身を任せた玉三郎は形式主義者たる役者の本分を発揮して、言動をどこまでも軽くする。 [review] | [投票(1)] |
★4 | スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース(2023/米) | 近代的自我とは逆行する家族観がカミングアウトにこだわるあまり、事はコスプレ趣味の恥辱感に矮小化する。父と宇宙を天秤にかける肥大化した私情は、破廉恥なほど緩み切った空間秩序の元凶だ。 [review] | [投票] |
★4 | 安藤昇のわが逃亡とSEXの記録(1976/日) | ニューシネマの青春劇をオッサンにやらせるグロテスクが、社会時評のために体を張る邪念へ男を走らせている。肉体を媒体化する感性が逃亡の趣意をセックスのための滞留にすり替えると、筋の方向性は見えなくなる。 [review] | [投票] |
★4 | 麻雀放浪記(1984/日) | 高品格の死に際してだれも人倫に走らない気品は、社会時評を損ないながら大竹の魔性を無効にして、文七元結の行き場を失わせる。 [review] | [投票] |
★4 | はなれ瞽女おりん(1977/日) | 撮影技師の邪念が盲人の屋敷にランプをともし、演出家の邪念は岩下に精神と肉体の詐称を強いて座りが悪い。瞽女の家事は触覚に依存して静物に帰着する運動の端緒となり、岩下はその運動にともなう自律性の喪失を性的に解釈する。 [review] | [投票(2)] |
★4 | リオ・ブラボー(1959/米) | 友情を性愛で捉える合宿映画は、ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンの関係性を扱いかね、後者の加入で予示される三角関係の不穏を誘拐で済ますような去勢の感性を発起する。そもそも臀部に気をやるウェインの歩き方から不穏である。 [review] | [投票(1)] |
★4 | 私が棄てた女(1969/日) | 女の度胸は発見されるのではなく、人格改変の産物にすぎない。社会時評に由来する景物の情報量が煙幕となってこの創話の恣意をはぐらかしている。微妙なる均衡は作者のエゴがぶち壊しにする。 [review] | [投票] |
★4 | フィツカラルド(1982/独) | 計数力がオペラ狂の動機から解離し、クラウス・キンスキーは頭髪の形状に顔容を同期できなくなる。カルディナーレは肖像画を嗤いながらその矛盾を指摘する。 [review] | [投票(1)] |
★4 | 木靴の樹(1978/伊=仏) | 地主の搾取に由来する限界状況が歳時記を家畜の健康に人生が左右されるスリラーにして、事態を合理化すべく人々の宗教観は神の規範意識を先鋭化させる。 [review] | [投票(1)] |
★4 | 日本列島(1965/日) | 怪獣が出ないゴジラ映画であり、殊に景物のディテールと熊井のレイアウトに北米コンプレックスが絡めばシンゴジの前兆が方々で観測される。 [review] | [投票(1)] |