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[コメント] 國民の創生(1915/米)

音を消して鑑賞。映像にだけ集中。映画がいかにして独自の文法でナラティブを構成できるかという点に着目。エイゼンシュテインとの比較において。
かねぼう

**ネタバレ注意**
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 音を消して鑑賞。映像にだけ集中。映画がいかにして独自の文法でナラティブを構成できるかという点に着目。特筆すべき点は、一つのカットに注目すれば、クローズアップ。一つのシーケンスに注目すれば、カットバックとフラッシュバック。そして全体に注目すれば、二つの要素を平行的に進行させ、次第にその交代のリズムを加速させながら、最終的にはそれらを対決に至らせるようなモンタージュ(ドゥルーズが“シネマ1”において言う平行モンタージュであろうか)。これらの技法やモンタージュの方法論が、この作品が映画史的に非常に重要である作品であると言われているまさにその所以であろう。

 特にこの平行的なモンタージュにおいて主要となる二要素であるが、前半と後半に分かれるこの作品では、そのそれぞれにおいて異なるものが用いられている。前半においては、北と南。後半においては、白人と黒人である。ここには確かに、現在の一般的な娯楽映画やアニメで中心的に用いられている、二要素の平行的な対立(味方と敵、男と女、正義と悪、など)に中心を据えて物語を進める方法論の萌芽が見られ、非常に興味深い。

 しかしこの二要素の対立であるが(北と南、黒人と白人)、グリフィスはそれを一つのまとまった純映画的な要素とは捉えずに、そのどちらにおいてもあくまで個人の感情に着目してしまった(北と南の家族間の友好関係、南の将軍と北の娘の恋愛感情)。これは彼の弱点であったように感じる。というのも、結局このようなスタイルは、まさに物語を語るために映画をそれに従属せしめるスタイルであるからである。初期のアメリカ映画が、映画独自の表現を追求せずに、それを物語に従属させてしまったという批判はしばしば為されているが、それはこのグリフィスの作品に端を発しているように思われる。例えば、エイゼンシュテインが「国民の創生」と同じテーマの作品を撮れば、北と南、白人と黒人の対立において捉えられるものは、それぞれが分割不能な要素として存在している二つの印象の対立から弁証法的に生まれる、一つのまとまった、現実の認識と同じレベルで捉えうる新たな印象であり、グリフィスにおいてそうであったような、“主人公の悲しみ、怒り”などという物語内世界的なものではないだろう。

 しかしこのように批判してみたところで、「戦艦ポチョムキン」は1925年の作品である。1915年の「国民の創生」と比較するというのも酷であろう。ここではむしろこの作品の物語構成における先駆性を素直に評価しておくべきだ、と思う。一応。

(評価:★4)

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