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[コメント] 禁じられた遊び(1952/仏)

“恋愛”ではなく“崇拝”の観点から。
かねぼう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 少女は、現象的な“死”は知っていたが、人間的なコンテクストにおいて“死”が持つ意味を知らなかった。それ故、劇中、彼女の瞳は死によって潤むことはない。それはある意味、少女の残酷さを象徴している。遊びの為ならば、死者を弔うための十字架を奪うことに何の躊躇も感じない彼女にとって、当然戦争が恐ろしいはずもなかった。

 少年は、少女よりは大人であったが、依然として子供である。それ故彼は、少女よりは死が人間にとって持つ意味を知っていた、が、少女のためなら、十字架を盗む事も厭わなかった。少女のために大人への反抗を徹底的に貫きとおす事を少年に可能にさせたのは、単なる恋愛感情ではなく、それ以上の何かであるように感じる。それは、例えば、少女への“崇拝”とでも言えばよいのであろうか。

 彼は頑ななまでに少女の側へ立とうとする。そこには、あやふやな態度を取って、大人からの叱責を少しでも軽減しようとする、柔軟な態度は存在しない。なぜ、そこまで頑ななのか?“崇拝”を誤魔化すような言動をすることは、それ即ち不徳だからである。では、なぜ、崇拝するのだろうか?言うまでもない。少女への崇拝を唾棄し、大人になることを選べば、大人からの叱責などとは比べ物にならない恐怖、すなわち“戦争”が圧し掛かってくるからである。

 “遊び”は、死の現象的意味しか知らない少女にとっては、単なるごっこ遊びのようなものであっただろう。しかし、少年にとって、少女は崇拝対象であり、“遊び”は儀式であった。少女の、死、しいては戦争に対する無感覚を象徴するかのような“遊び”に参入することによって、少年は、少女と同化することが可能となり、戦禍の恐怖を逃れる事が出来たのである。

 しかし大人がそれを許すわけもなかった。全ての人間は、時間の流れの中に参入し、それに伴って成長することを義務付けられているのである。大人は少年から少女を引き離し、“遊び”は終結する。

 ラストで少女は“別れ”の悲しみを知り、その悲しみは次第に“死”の理解へと繋がるであろう。少年に関しては言わずもがなである。死の意味を知った二人には、エンディング以降、最初のシーンでリアリズム的な描写によって示された様な、戦争の真の恐怖が襲いかかってくるはずである。それを暗示するかのように流れるナルシソ・イエペスの物悲しい音楽は、エンディングにおいて非常に雄弁だ。

(評価:★4)

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