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[コメント] 人間革命(1973/日)

大学の下宿の大家の小母さんが学会員で、見延山に参ったら脚が立てるようになったと語っていたのを思い出した。本作、その類の奇跡噺かと思いきや存外理性的な説教連投で勉強になった。入信しようとは思わんが。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







昭和20年7月3日という微妙な時期の奥多摩刑務所出所、奥さんアラタマの出迎え。から始まる。電車から明治神宮が見えて、乗客全員お辞儀をする光景は他の映画では観たことがなかった。無視する丹波。焼夷弾の残骸からショベル作る連中の会話に参加。廃墟眺めて先生時代の回想。推理式算術で儲けていたが、弁護士に会ったら現在は250万円の借金(70年代では20億円と字幕が出る。当時の1万円は70年代の800万円の計算)。こういう細かいのは好き。

商売再会に駆け回り通信教育で会社再開。紙が高いと軍の隠匿物資求めてチンピラに取り囲まれて白スカーフの渡哲也は予科練の唄を口笛で吹く(特攻崩れという存在は私には判り難い。渡は後半、丹波の説教に因縁つけに再登場)。丹波は紙を高値で買い入れて知古に安く渡したりしている。後には小説の出版に切り替え。

昔の学会員の仲間がぽつぽつ尋ねてくる。牧口芦田伸介なき後、片腕だった丹波にみんな再建を頼みに来るが丹波は今一つ乗り気でなさそうな態度を見せている。それはなんでかな、という処で引っ張る作劇だが、これは半端に終わっている。例えば、獄中転向した面々とお山に行くと云う丹波に非転向者の稲葉義男が抵抗する。そんな感情は仏法に比べれば芥子粒ほどに小さいと丹波は云い、最後は稲葉と和解している。これは(内部スパイのため)転向者に非寛容だった共産党への対抗というか嫌味というか、そうした件だろうと思った(両者は今に至るまで犬猿の仲)。その他、信者に経済人グループと教育者グループがあるとか、牧口は価値論で戸田は生命論とか、思わせぶりな科白はマニア向け。

戸田は明治33年加賀市生誕、北海道石狩へ引越し。15歳札幌で就職、18歳で代用教員、20歳で苦学するつもりで上京、牧口芦田伸介を頼った縁で彼の、運命の転換を主題とする価値論、人生地理学、に感化される。代用教員になり、各種職業を転々、紙芝居屋もやっている。大正時代にも紙芝居屋があったのだと学んだ。そして出版社興す。昭和になり、牧口は日蓮正宗に入信したから君も入れと云われ、授戒させる坊さんが山谷初男というのがいいギャグ。戸田は商売仲間にも日蓮正宗を薦めている。

牧口は戸田の出版社から「創価教育体系」(昭和5年)出版。創価教育学会旗揚げ。この会と、以前からあった日蓮正宗との関係が映画だけでは判り難い。昭和10年代になり信者は増加の一途、会員三千人。これは天理教など他の新興宗教も同様な訳だ。宗教団体法と治安維持法で神社が上位に置かれ、日本の神は天照大神だけとされ「自由な思想を弾圧したのであります」と牧口は神田の大入りの大会で演説、やんやの喝采を受けている。戦争反対の仏法僧はことごとく検挙されたと語られる際に僧侶をリンチしているモノクロフィルムが映されるがこれは何だろう。引用ではなくモノクロで撮っているのかも知れない。

牧口らは日蓮正宗の本山の僧たちに意見している。意見を述べられるほどの勢力があったということなのだろうか。牧口以下、戸田も逮捕される。罪状は治安維持法違反と伊勢神宮への不敬罪! この留置場でダラダラ過ごすのがダラダラ撮られるのがいい。戸田は取調官を揶揄い、虱と闘い、間違って届けられた漢詩の本に次第に首っ引きになり、非ず非ずだらけの詩を考え倒し、判りたい判りたいと繰り返す。大悟の瞬間を迎え、夜なのに窓にでかい陽が昇る(月なのか火の球なのか)。判ったと目を輝かせる丹波の上手いこと。監獄で目覚める思想家という伝説があるが、本作はこれをひとつ具象化している。牧口の死を知らされた丹波の慟哭も抑えながらも凄まじく、錦之助が想起される。なお、丹波はカンペ読むというWikiネタは私は嘘臭いと思う。

丹波の濱田寅彦たちを相手にした日蓮正宗講義がある。日蓮仲代達矢の国家諌暁、鎌倉幕府の政策に真っ向反対、死罪宣告、夜の浜辺で斬首の直前、光の球が空を飛んで役人たちは逃げて行く。この球は獄中大悟で昇ったものと同じ形状と読み解くべきなのだろう。佐渡に島流し。日蓮は荒波に叫びながら「俺は凡夫。自分の信じている法華経だけは紙ひと筋も疑わないつむじ曲がり」と自己分析し、「南無妙法蓮華経だけは天地と共に絶対の永遠のもの」と絶叫している。

原爆ほか地獄は現実に幾らでもある。しかし極楽も現実にこの世の中にある、と「十界論」が説かれる。六道輪廻のうえに声聞、縁覚、菩薩、仏が乗っかる。後の四つは反省的理性ぐらいのものだ。これがウィークエンダーみたいな再現映像(雪村いづみが亭主に殴られたり佐藤允が入院したり黒沢年雄が銀行強盗したりしている)で解説され、気楽な講義が展開される。仏の説明には監獄で読んだ書、「無量義教徳行品第一」が引用されるのだった。「仏とは自分自身の生命のことなんだ」聴講者たちは狐につままれたようになっているのもお構いなしに、最後は自力本願こそ人間革命と説かれて終わるのだった。

他の新興宗教の教義本を立ち読みしたことがあるのだが、世界とは一次元から始まって三次元四次元に人間は住んでいるが五次元六次元とどんどん上のステージがあって、そのたびにトンデモナイ世界が開けるというものだった。こんなもん科学的証明など無視している訳で、この無視において宗教なのだと了解したことであった。本作の説教の四界の上乗せについても同じようなものだと思った。また正に非ず死に非ずとは「命」以外にあり得ない、という結論は異様な感動があるが、冷静に考えれば命とは正であり死ではない。これをどちらでもないと断定する仕草こそが宗教なのだろう。そのようにして命は永遠になるのだろうか。それとも永遠にも非ずなのだろうか。

物語が中途で投げ出されているように見えるのは続編ありきなんだろう。中盤のバラックの歓楽街、昨日まで一升120円の米が今日は160円だと嘆かれ、子供はガム売り、「天皇を人民裁判に」「いい目を見ているのは闇屋だけだ」「いちばんでっかい闇屋は政治家と資本家だ」等の声が盛り上り喧嘩している。ここは殺伐とした世相のいい描写だった。このような天皇制や政治家への不信からのスタートは当時の新興宗教として当然なのだろう。政権与党の現在、学会信者は本作をどう観るのだろう。

(評価:★4)

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