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[コメント] 日曜日は終わらない(1999/日)

失業しても生温く続く日常に耐えられない加速主義の崩壊感覚はクラゲのように海に揺らめく赤いパンティー。神代『恋人たちは濡れた』の影響露わだがベクトルは逆向きで、こわれもののような繊細が強調された。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







水橋研二は会社にリストラされる。しかし直ちに死ぬ訳ではない。なぜだろう、本当は俺みたいな落伍者は死ぬんじゃないのか、なぜ生かされているのだろう、という違和感が煮詰まりゆく物語。これは、80年代の金属バット事件のような心情だと思われた。一度脱落したら這い上がることなど考えられない、受験戦争を生き抜いた世代の、福祉によって生きるのが耐えられない崩壊感覚。

並行して発生した祖母の自動車事故死、加害者で不起訴になった塚本晋也は母のりりィと再婚して三人の同居が始まる。これも自らの失業と倍音を奏で、水橋は耐えられない。塚本は消え去るべきでないのかという確信が、塚本への凶行に繋がるのだろう。

風呂にひとり入って牛乳呑んで潜水するのが習慣の水橋にとって、一緒に風呂に入る塚本は許し難い男なのだった。塚本は都市の常識を身に付けない男として描かれる。昔の農村社会なら、被害者と再婚したり一緒に風呂に入るなど当たり前だっただろう(塚本は詫びに野菜を届け続けてりりィに落ち着ける人という評価を得る)。水橋の線の細い都会人の造形が対照される。

そういえば冒頭のリストラも、別居中の父渡辺哲にトイレノックして告げられている。塚本が死んだのかは詳述されず、以降はりりィすら登場しない説明放棄に、曰く云い難い余韻がある。服役出所して渡辺に引き取られ、彼の工場に勤め、彼の屋上プレハブの別室に住まう。父の工場は「大気圏には出られるが無事戻れるかは判らない」という刹那的な違法のロケットを製造している。ここからもう幻覚の匂いがする。

前半に水橋はランジェリー・パブで林由美香と出会い、しりとりをするが性的なことはしない。下着ショップで買った赤いパンティーの包装プラボールで作ったてるてる坊主がいい。約束のデートは雨で果たされない。彼女は父の屋上に出現し、「人を殺したのに何で生きているの」と問い(殺人なら刑期が短すぎるから、これは被害妄想を聞いたということなのだろう)、パンが戻るともういない。水橋は林を訪ね出し、パラボラアンテナが回りジェット機が低空を滑走する河原で再会し、海ではなくてロープウェイに乗って、山腹の廃墟で林はプレゼントの赤いパンティーだけになって戯れてしりとり、林の「人殺し」でプラボールは投げ損ねられ、水橋は朝目覚めると林はいない。

水橋は印象的な門扉の先、海岸の埠頭から投身するが、一方で父の屋上での散髪の続きを引き受けて映画は終わる。このパラレルワールドのどちらを現実とも映画は決めていない。トイレで始まり散髪で終わる父との、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトを混交したような関係も、あらかじめ帰還の叶わぬ宇宙船でもって刹那的と宣言されている。生死の決定はなされない。三度反復される、水中に流れる赤いパンティーの、生も死も定かならぬクラゲのような生態が描かれたのだろう。そのように日曜日は終わらないのだった。

水橋が自転車に乗るいいショットがある。冒頭の失職が決まって工業地帯の自動車道路を笑いながら急降下するショット、後半、林を訪ねる際の水の溜まった広場に円環を描く逡巡のショット。これも『恋人たちは濡れた』の影響下にあり、同時代では『キッズ・リターン』が想起されるがこちらの方が優れている。一緒に失業して泥棒になる大杉漣が店から出るとき、扉の自動再生装置が「ありがとうございました」と告げるのが生温い日常の描写で心に残る(彼はすぐ逮捕されているが)。

タイトルからは城山作「毎日が日曜日」というテレビドラマが想起されるが、そこから何と隔たったことだろう。服役後、印度人家族との交流の断片があるが、ここはよく意味が判らなかった。家族の形態の変容を示したのだろうか。水橋にすぐチェンジさせられるパブの絵沢萠子が相変わらずの活躍。彼女を尊重する配役が素晴らしい。よくテレビで撮ったものだ。NHKドラマの伝統は生きていた。

(評価:★5)

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