[コメント] 私の一生(1950/中国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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清朝末期から大戦後の国民党支配時代まで、主人公が22歳から60歳まで、北京で警官として過ごした日々が回想される。清朝、国民党、大日本帝国、国民党と仕える先が変わるが警官として勤め上げる。その間の中国史が通説され、細かい処は判らないニュアンスがある。
清朝末期、失業していたところ、隣人の警官の誘いで警官になる。このとき22歳。「身分は低くても役人だ」。合格すると辮髪を切られ、みんなに羨ましがられる。訓示「持ち場で処理、上司を煩わすな」。兵隊が暴れている(中国刀振るのだ)と上司に報告すると全員に笑われ、現場鎮圧に出向くのは翌朝、しかも主人公だけ現場に残されるギャグ。警察は武器ももたないらしい。
辛亥革命(1912年、23歳)。警官は「共和国」とは何のことだと議論。秦氏の門番になるのだが、この秦氏とは何だろう。警官に阿片買いに行かせ、日本人を接待している(劇伴で君が代がパロられている)。学生が21ケ条要求反対、パリ講和条約反対、日本製品ボイコットを掲げてデモして秦氏宅に押しかける。「21ケ条で中国の土地が日本のものになるんだよ」。止めても突入される。五四運動(1919、30歳)と字幕。この辺りまではコメディタッチだった。
秦氏は失脚し、主人公は学生運動の申と懇意になり、部長になる。しかし秦氏が復活(これは何だろう)し、秦氏の妻の弟が警察署長になり、主人公は巡査に格下げになり、また門番に降格。秦の妻は日本製の高価な香水を使い、主人公の隣人は子供を売り、主人公の妻は病死する。この辺りはどん底の描写。
首都は南京になり(1927年、38歳)北京は廃れたと云われる。申さんの下でビラ配りしていた息子も警官に。満州事変(1931年、42歳)、抗日出兵と学生デモ。日本の警官になるのかと親子喧嘩。署長は息子の嫁をさらって「婦女慰労隊」に渡してしまう、というとんでもない件がある。息子は共産党の遊撃隊に参加、別れの夜にきれいな雪が降っている。ここが私的ベストショット。
そして終戦を迎える(1945年、56歳)のだが、国民政府はもっと酷いと云われる。主人公には酷いことした日本人を無事送還するのが不満だし、署長がまた復職し、訴えると逆に息子は共産党だろう居場所を云えと拷問される。牢獄で申さんに再会し、ついに訴える。「納得のいかないことが山ほどある」「人間味のある体制に仕えることがなかった」「私は誰のために勤めたのか」。警察を辞め、ひとり路上で「ああ、私の一生よ」と云って死んでゆく。1949年、60歳。息子が旗持って満面の笑みで映画は終わる。
監督主演石揮は誰かに似ていると考えながら観ていたのだが、出した結論は阪神の金本監督。いい役者さんだった。悪い時代を妥協しながら生きてしまった男を、映画は悲哀と後悔を込めて見つめている。それは映画では1949年に終わったはずだったのだが、終わっていなかった。「石揮は後年、反右派闘争により激しく糾弾され、1957 年に42 歳で非業の自死を遂げた」と国立映画アーカイブの解説にある。佐藤忠男は「人間味あふれるこんな傑作を革命的でないとして葬るところから多くの誤りが生じたのだ」と憤りを隠さない文章を記している。
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