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[コメント] 愛怨峡(1937/日)

落ちて行く女の変遷をコメディ要素で装飾した新派劇。ミゾクチには珍しい切り口だが痛快に仕上がっていて懐の深さをみせている。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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そしてハッピーエンドなのも珍しいだろう。漫才(万才)からしてそう(「こんな面白い女」と山路は自虐する)だが、父親のいいなりで東京から連れ戻される清水将夫や、これを山路ふみ子に伝えられず新聞に隠れる田中春男など、いつものミゾグチらしい情けない男たちはコメディに仕立てられている。河津清三郎には「苦労した者だけが知っている中身があるのよ。あたしはそれがほしいの」と語った山路にとって、漫才に戻るラストはコメディならではの理想郷なのかも知れない。

撮影は中盤までは細かいカット割りで、中盤以降に幾つかの印象的な長回しが見られる。素晴らしいのは赤ん坊を預ける件で工場街の川向うから山路の走る軽い長回し、次にオバサンと息子が山路の別れを退屈そうに待っている件が魚眼レンズ使ったようなショットで異様に印象に残る。このオバサン、「この子を日干しにしたくなかったら仕送りは頼みますよ」というもの凄い科白を吐く。仕送りがなければ赤ん坊はネグレクトすると宣誓しているのだ。こんな処にしか預けられないのだ。

それから、夜の公園で山路と河津清三郎が背中合わせのベンチに寝そべってヤサグレた会話をする件。このベンチのなんか出鱈目な配置の仕方にミゾグチらしいインパクトがある。清水の父親が乱入して同居を俺は認めんと拗ねる件は家父長制の歪さを表出して素晴らしいのだが、清水は山路と同居することを親に伝えていなかった訳で、どこまで情けない男だと慨嘆させられる。雪が屋根から落ちる冒頭から、雪景色に帰ってくる構成。この序盤の日光の照り返しで輝く雪景色がとても美しい。

最初に山路が務める大衆ミルクホールの暖簾は左から右に書かれている。40年代まではつねに右から左に書かれていたと思っていたので意外、勉強になった。現存フィルムは脱落が多い。「復活」なら最後、清水は旅芸人一座を地の果てまで追いかけることになるが、そんな描写はなかった。しかしこれも、脱落したのかも知れない。タイトルは「あいえんきょう」と読む。

同時代の宮本百合子の評「「愛怨峡」における映画的表現の問題」が青空文庫にあるのを見つけたので部分引用。「物語の筋のありふれた運びかたについては云わず、そのありきたりの筋を、溝口健二がどんな風に肉づけし、描いて行ったかを観るべきなのだろう。」「この作品が、日本の今日の映画製作の水準において高いものであることは誰しも異議ないところであろうと思う。一般に好評であるのは当然である。」しかし注文もある。「山路ふみ子は、宿屋の女中のとき、カフェーのやけになった女給のとき、女万歳師になったとき、それぞれ力演でやっている。けれども、その場面場面で一杯にやっているだけで、桃割娘から初まる生涯の波瀾の裡を、綿々とつらぬき流れてゆく女の心の含蓄という奥ゆきが、いかにも欠けている。」「おふみと芳太郎とが並んで懸合い(漫才)をやる。文句はあれで結構、身ぶりもあれで結構、おふみの舞台面もあれでよいとして、もしその間におふみと芳太郎とが万歳をやりながら互に互の眼を見合わせるその眼、一刹那の情感ある真面目ささえもっと内容的に雄弁につかまれ活かされたら、どんなに監督溝口が全篇をそれで潤わそうとしているペソスが湧いたか知れないと思う。」妥当な評価だと思う。

(評価:★4)

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