コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ジャンヌ 愛と自由の天使(1994/仏)

ジャンヌ萌え。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画館で観たのは、もう何年前かも忘れたが、地元の映画館での一日限りの一部二部連続特別上映の際だった。その際には、決して大きくない劇場にたくさんの女子高生がつめかけていて、彼女達の熱気に囲まれながら身を竦めてスクリーンを見つめた記憶がある。そして観終えた後は、一部二部それぞれのポスターやパンフレットを買って帰って来たのだった(ポスターは未だに部屋に貼ってある)。グッズを買っていたのは、決して自分だけではなかったと思うし、何より何故にあれほどの女子高生がつめかけていたのか、彼女達を動かしていたのはなんだったのか、今となってはそれが気になる。

で、考えるわけだ。思うに、それは普遍的な「ジャンヌ萌え」とでも呼ぶべき感情なのではないか。恐らくは、宝塚スターのファンになる女性と同じ心理で、あるいは格好いい女子高の先輩に好意を抱く後輩と同じ心理で、ジャンヌというキャラクターは憧れられている。何故ジャンヌは憧れられているのか。それは彼女が、男子の魂を宿した女子だからなのではないか。当時のキリスト教社会では、女性が男装することはタブーだったらしいが、ジャンヌはそのタブーを恐らくは知らずに、ただ自らに聞こえてくる天使の言葉に従って男装した。言わば、戦う為に敢えて男性性を受け容れたわけだ。この「女子でありながら男子でもある」という矛盾した存在感が、恐らくはジャンヌというキャラクターの普遍性なのだ。

「女子でありながら男子でもある」存在とは、つまり天使である。悪魔もまた同じだが、天使と悪魔はもとは同じ一つの存在だったのだから、それは当然だ。そして天使とは、抽象的に言えば無垢さと善良さの象徴であり、同時に人間としての完全性の偶像でもあるだろう。ジャンヌ的なキャラクターの普遍性、その魅力は、つまりそんなところにあるのではないだろうか。(卑近なところで言えば『風の谷のナウシカ』のヒロインを思い出したって構わない。あれもまたジャンヌと同質のキャラクターだから。)故にこそ、私達はジャンヌを愛する。そしてそれは、単に女性のみに息衝く感情ではなく、女性的感受性を宿した男性に於いてさえも、恐らく息衝いている。

それで、この映画だ。この映画のジャンヌはサンドリーヌ・ボネールが演じているが、彼女は実は、同じジャンヌの役として『百一夜』という、映画百年を記念したフランス映画にも出演しているのを見たことがある。そこではフランス映画史の一頁としてこの映画の存在も扱われていたわけだが、そこでの彼女=ジャンヌは、年配の俳優(男性)達から「愛すべき乙女」というようなニュアンスで語られていたと記憶する。ジャンヌをめぐる視線とは、つまりはそういうニュアンスなのだ。女性的な無垢さと善良さ、そして男性的な勇ましさ。それらを兼ねそなえた「愛すべき乙女」。

この映画(1部:戦闘)の中では、そんなジャンヌの戦う姿が描かれる。男装に身を包むジャンヌ、銀の甲冑を身に纏うジャンヌ、そして弓矢を受けて痛みと恐れに泣き出すジャンヌ…etc。先に「ジャンヌ萌え」などと書いたが、ここにはまさしく今風に「萌え」とでも言いたくなる感情の本家本元があるような気がしてしようがない。では「萌え」とはどんな感情なのかと言えば、それはつまり、成熟しきらぬ、あるいは予め抑圧された色香に向けられた、こちらもまた成熟しきらぬ、あるいは予め抑圧された欲情の萌芽の眼差し、なのではあるまいか。

劇中序盤、ジャンヌを王太子のもとへ送り届ける役目を担った従士達は、はじめこそ「乙女」ジャンヌに心密かに欲情の眼差しを向けるが、いざその寝顔を見るにつけ、「見ろよ、天使みたいだ」とこぼして、自分達の不徳を恥じる。これこそ、まさに従士達に「ジャンヌ萌え」な感情が芽生えた瞬間だったのではないか。さすがにこの映画では、その「天使みたい」な顔そのものを映し出そうなどとはしないが(それは映画として下品だ)、そのセリフだけでも、それがジャンヌを慕うことになる人々の感情のありようを端的に示していると思うのだ。そしてそんな人々の感情は、時代を超えて普遍的なものであることは、この映画を観に来ていた現代の日本の女子高生の姿を見るだけでも、確かなことではあると思う。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。