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[コメント] 容疑者Xの献身(2008/日)

名探偵ガリレオ』いぇい♪ …とかいう作品ではゼンゼンなかった。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







事前CMの印象…および、その後の様々な場面で目にしたパロディ群を含めて、こちらで勝手に予想していた作品とは、あまりに違っていて…そこに感動した。福山雅治の格好良さをただただプロモーションするだけの映画化だろうと見くびっていたよ…。

出だしのバカっぽさというか、あまりにハッタリを効かせた演出で、素直に、ただ天才をそれっぽく描いて格好いいだろう? …と、見得を切って終わるだけの推理映画なんだろう?…と思っていた。侮っていました。

その割には、扱う犯罪が地味で、オープニングの洋上船舶爆破事件(?)と同じ本編前の「前菜」がもう一つあるのかな? とも受け取ってしまった。その容疑者Xのあまりにあんまりなストーキング気味さにすっかりミスリードされてしまいましたよ。ミスリード? いや、ミスリードでもないのだけれど…(二重入れ籠)。

後半頭の、「相手が置き換わっただけ!」とヒステリックに娘の前で叫んだ台詞は、素直に、そういう展開なのか? と乗せられてしまった。というか、まさかやっぱり? …と。

当初の“余念”の全てが、私の観賞感へと予想外に作用してきた面白い体験でした。ラストは決して言わないで下さいと事前演出されていた、いわゆるな作品と比較にならないほどに…。

しかし、主人公に「あいつは天才」と言せていた箇所が、引っかかりとしてしっかり効いていた。普通、犯罪者として完膚無きまでに追い詰めることになる相手に対しては使わせない台詞だ。

これは、それまでの推理モノの不文律のような「謎解きをした側が、常に犯罪を暴かれた側より賢い、強い、正しい…」…といったような価値観・演出趣向には当てはまらない作品になっていた。『Death Note the Last name』の映画版での解決の演出にも通じて…この時代らしさなのか? これは。

確かに、映画のタイトルは「容疑者Xの献身」だ。…むしろこの映画の主人公は、こちら側であったと言うべきようなシナリオ(脚本)であった。故に、あのラストは辛い。あの叫びは辛い。その滑稽にも見える演技によって、あちらへ引き込まれずに済んだようなものだ。

問題を作る方と解く方、どっちが賢いか。どちらが難しいか。この時代になって、ようやく、本当の意味で、「受験制度の呪縛」のようなものが、解け始めているのだろうか…。言葉の上ではその問題はこれまでも指摘され続けてきた。問題として説かれてきた。しかし、その基盤は、なんら揺らいでいなかった。戦中戦後の強い者が正しいが、賢い者が正しいに変わったくらいのもので、優秀な者が常に正しい世界観の中での(弱者の存在を)承認(してやる)にすぎなかった。物語の器はずっと同じであった。

ここでは、知恵比べをしたどちらもが負けたと言えよう。どちらも打ちのめされた。挫折感のような傷を負った。そして、打ちのめされた彼らを、救うことができるのは何か…癒すことになるであろう存在としての社会を、どこか感じさせてくれる…。というか、そこでしか救いの可能性を見出せない。

数学史の中で捨てられない失敗した証明の山のように、人類が成長するために経験しなければならない悲劇の山の小さな小さな一つとして、少なくともそれは、痛みを残したまま受け継がれて行くのだろう。

■蛇足■

バラバラにして…って聞いて、え?あの雪山に?って思っちゃった。 殺そうと雪山に誘い出したともとれる展開の中で、置き去りにするかのごとく吹雪の先に何度も消えたあの間に処分してたの? とか、無茶なことまで考えちゃった。見つけるまでに裁判は終わってるとかの宣言で、この後の展開でヘリとか飛ばしたりしてる時間あるのか?! とかって。…そしてエンディングロール。海中を浚っていて、そりゃそうだよね。

しかし、容疑者であった二人。罪を償った先として、その後一緒に暮らすシチュエーションなんて…。それを幸せな生活としては、どうあっても考えられない。あの二人では、まったくそうとは思い描けない。経験的・合理的に考えて。あの先、本当に「誰も幸せにならない」…なれないとしか結論づけられない。私には。単に片思いが両思いになれたのだと解釈しえたとしても、だからと言ってハッピーエンドなのだとはとても言えない。

■追記090314■

ここでのコメントを読んで…、「天才=道徳的=遵法」であるものなのか?! ◆彼のような天才が何故、人生を一旦は諦めようとしたのかは考えなかったのだろうか? 正当防衛うんぬんを自明の事として持ち出してくる所に、私は思う…だからか!と。そんな「正しさ」にこの社会が、この世界が則っていたならば、彼は天才として大学に残り、今も研究を続けていたであろう…と。進学を一旦は諦めていても、才能を生かして活躍できる場は、何かしらあるはずではないか。そんな彼が、世を恨むことなく死を思い立つに至った理由は? 何も描かれてはいなかったけれども、それを小さく想定することはできない。ここで面が不細工かどうかなんて、そんなに大きな問題だろうか? ◆彼がもう一度生きようと思い改めた所(隣人への思慕)ばかりが強調されているけれども、私は、人生を諦めようとした理由の方をこそ、思わずにはいられない。その絶望こそが、正当防衛&情状酌量が通るはずだと思えてしまう者とは決定的に違っている場所に立たされていたであろうことを伺わせる。この社会の「社会的制裁」は、裁判所の結果を踏まえることなどないし、真実に基づくことが無いことはなおさらである。社会は弱者を、弱みを見せた者を、少しでも難癖が付いた者を、たちまち食らい尽くす。 ◆彼のその絶望は、天才が死を選んだ時に出していた結論は、すでにその時に、「正しさ」の側が負けていたはず。遵法精神も常識的な対応も、前提として、とっくに失っているものだったと考えたい。その「結論」の正しさの故に、作問(トリック)の前提として、殺人も選択肢の内に入りうる。そして、完全犯罪の成立とは、彼がこの世では自殺以外にないと結論を下したことの正しさの証明にも比される。 ◆だから逆に、完全犯罪の不成立が、自殺を正しいと結論付けたことを否定することにもなる。そして、この世界でもいわゆる「正しさ」を貫き通してゆける可能性が残されていることも示している。それは「引っかけ問題」のように、ちょっと視点を(常識を)変えてみることさえできれば、こんなに簡単なことはないはずなのに、世に張り巡らされた「常識」によって、とてつもなく困難な課題として、我々を悩ませ続けている。

(評価:★3)

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