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[コメント] リュミエール工場の出口(1895/仏)

あらためて今メリエスを否定するという「アクション」としての発言。
バーボンボンバー

映画が生れた時、映画は自由だった。メリエスがその新しいメディアで物語を語ったことで映画は物語を語らなくてはならなくなってしまった。映画をもっと自由なアートにするためにはリュミエールの真摯で無垢な視線を見直さなければならない。ブレッソンが映画から俳優を排除した。クレールトリュフォーカサヴェテスらが映画における脚本の必要性を提起し、大木裕之らが無脚本性を追求している。俳優と脚本から脱却してこそ映画は自由となる。今またリュミエールの行った事が重要になる。

映画が物語を語るのはメリエスのせいではなく必然であったと思うし、物語があってこそ映画が発展したのである。物語は大好きだし、「20世紀の物語」を語る時映画というジャンルは絶対に欠かせないものである。物語を語る上で映画というジャンルは唯一のものであるし、様々な特性がある。映画を愛してしまっているからこそ、刺激的なアクションとしての発言を今私はするのだ。

(評価:★4)

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