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[コメント] クイズ・ショウ(1994/米)

この手堅い演出にはむしろ好感を抱いてもいいところだが、終盤、作品が内包していたテーマがその巨大で不気味な姿を現すに至り、レッドフォードの良識的な誠実さではこのテーマを抱え込めなかったと感じさせられる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







クイズ番組『21』で、知的な貴公子を演じていたチャールズが、被り続けていた仮面を遂に脱ぐ、終盤の下院立法管理委員会。カメラマンが退場させられたその議場は、チャールズがその前でクイズ王を演じ続けてきた「カメラ」の支配権の外で、真実が明らかにされる空間となる。だが、用意した声明を読み上げたチャールズに、委員たちから次々と、賞賛の声がかけられる。アメリカの知的名門の出であるチャールズを擁護(という形で、失われゆく権威と秩序を回復しようと)する、政治家たちの保守性。

そんな中、一人の委員は言う。私の感想は皆とは違う、と。「貴方ほどの知的な人物が、真実を言っただけで、称讃されるのか?」。真実を言っただけで賞賛、とは、まさにクイズ番組で行なわれていたこと。知識を活かして何事かを考えたり行なったりするのではなく、ただ正解を答えるだけで、名声と富を得る。

この委員の発言の直後に聴衆から沸き起こる拍手は、シーンを観ているだけでは、委員とチャールズのどちらを讃えているのか判然としない嫌いもあるのだが、委員たちからの発言がもう無いということでチャールズが退場となると、議場から去るよう命じられていたマスコミが、再びチャールズを取り囲む。チャールズは、番組でわざと誤答することでクイズ王から退いていたのだが、ここで再びマスコミの寵児と化す。「『21』とどちらが緊張しましたか?」という記者の質問は、委員会とクイズ番組が同等化してしまっている事態を感じさせる。実際、スポンサーや放送局上層部の責任が一切問われず、彼らの財力と権力の支配下でコントロールされるがままという意味で、クイズ番組と委員会は同等なのだ。

息子チャールズと共にマスコミに囲まれたマーク・ヴァン・ドーレン氏は、息子が教職を追放されることについて感想を求められると、答えに窮して額の汗を拭う。この、「答えに窮して額の汗を拭う」仕種は、チャールズ以前にクイズ王としてやらせに加わっていたステンペルが、番組の演出として委員会で証言し、聴衆の笑いを誘っていた仕種だ。このステンペルは、自分が失った、人々からの注目を、この委員会で一時取り戻して有頂天の様子だったが、チャールズの、贖罪と後悔に満ちた声明文(彼の一家は文学によって名声を得ている)によって、スターの地位を再び奪われてしまっていた。そして、立派な文学者であるはずのマーク氏は、クイズ番組の回答者と同じ道化を、図らずも演じることになるわけだ。

管理委員会のシーンの直前、チャールズが、講義を終えた父マークに、やらせに加わっていたことを告白するシーンがあるが、このシーンの初っ端、マーク氏は、生徒からの『ドン・キホーテ』に関する質問に答えて、「騎士らしく振る舞えば騎士なのだ」と言っていた。これは、チャールズが、クイズ王らしく振る舞っていたことでクイズ王として君臨していたことを思うと皮肉に思えるが、委員会でチャールズは、誠実に、本来の意味で騎士らしく振る舞ったとも言える。だが、そのことでまた、マスコミに祭り立てられる事態ともなる。

やらせ問題を調査する、若きディック・グッドウィンもまた、テレビという風車に向かっていったドン・キホーテの役割を担わされることになる。彼が、やっとの思いでテレビ局社長を局内で見つけ、歩き続ける社長を追って行き、「貴方も有罪だ」と追及の意志を表わしたとき、社長は余裕の笑みを浮かべて言う、「なら、どうして君が汗をかいている?」。

エンドロールでは、番組の観客たちが盛んに拍手し笑う姿が延々と映し出される。まるでこの映画の観客を嘲笑っているかのようでもあるが、それと同時に彼らは、毎日テレビに対して、バカバカしいと思いながらも些かの暇潰しを求める、我々自身の姿でもある。「やらせ」に関しても、バカバカしいと思いながら、そのバカバカしさそのものを格好のネタとして消費してもいる、無責任な視聴者としての我々自身の姿。

とはいえ、劇中、「視聴者が観たいのは知識などではなく、金なんだ」という台詞があったり、チャールズが番組プロデューサー二人から誘われる際に、講師の給料の安さを指摘されたりと、何か金がすべて支配しているような調子で単純化している印象もある。映画の冒頭も、ディックが、高級車を買おうかディーラーと相談しているシーンが展開していた。だが、視聴者は、金ではなく、チャールズの家柄や容姿、教養といったものが醸し出すイメージを求めて番組を観ていたはず。だからこそ、「イメージ」として貧相なステンペルが外されることになったのだ。そうした、イメージ、印象が商品化されるという事態への批評性が本来あって然るべきだった。

ただ、ステンペルがスポンサーから嫌われたのは、番組中で、あからさまにスポンサーの商品や、自らが受けている待遇を褒め称えたせいでもある。つまり、真の権力者は隠れて影響力を行使したいのであり、物事の裏にある仕組みを不用意に衆目に晒すような人物は、排除の対象となるのだ。

(評価:★3)

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