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[コメント] この広い空のどこかに(1954/日)

敗戦のほころびと復興の糸口が混在する時代にあって、ささやかな幸福を明日に託す市井の人々のとっても“良い”お話し。ですが、このポジティブ思考は、文句を言わず現状を受け入れ、苦痛の原因や矛盾の責任を追及しないという、ふたつの“放置”に依拠している。
ぽんしゅう

この「道理」は、その当時の楽観的未来志向者(それは、やがて戦後社会の大衆を形成することになる中産階級予備軍なのですが)にとってはとても心地よかったのでしょう。でもその“放置”は、はたして正しかった(良かった)のだろうか・・・と、その後の日本社会がたどった復興と発展と挫折と停滞を知る今(2020年)になって、この映画を観た私は、うーむと腕組みをして考え込んでしまうのでした。

たとえば、本作(1954年当時)では、巨大な煙突から黒煙を吹き上げる川崎の工場群は「希望」の証しとして描かれます。でも15年後の1970年代に青春期を過ごした私にとって、この煙りを吹き上げ空を黒く覆い尽くす(タイトルの「この広い空〜」が実に皮肉です)工場群は、公害問題の元凶として「失敗(放置)」の象徴となっていました。工場群を背景にして、多摩川にボートを浮かべて遊ぶ人々のシーンに(おそらくセーヌ川を重ねたのでしょう)シャンソンが流れてきたのには唖然としました。

なにより、本作のわずか数年後に同じ松竹映画でありながら、ヌーベルバーグと呼ばれる反体制的な作品群が多数登場するわけですから。

(評価:★3)

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