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[コメント] 涙(1956/日)

典型的なメロドラマで、登場人物を善人と悪人に峻別するのだが、この峻別が繊細に穿っていて彫りが深く、後半に行くに従い宗教的な寓話に近似してゆく。収束もとてもいい。鑑賞フィルムはピンが整わない旨断りがあった。乞復旧。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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木下兄妹出身地の浜松が舞台。楠田芳子はヤマハの工場やお祭りを取り上げる。工場は大きな体育館ほどの広さでピアノを組み立てたりハモニカを調律する様子が映されて、昼休みは庭で若尾文子たち女子行員がコーラス、石浜朗たち男子行員がハモニカで伴奏つけている。

父親の前科者(銀行職員での使い込み)明石潮(痩せていて判らなかった)の旅芸人は序盤に若尾文子を訪ね、若尾はどこに案内する訳でもなく路上で金を渡して元気でねと別れる。流れ者の兄の佐田啓二は云う。「役者気取りで笑わせる。親父は俺たちを捨てて白狐に貢いでいる。あれで楽しんでいるんだよ」(この労務者の兄と偶然に再会して居酒屋で飯喰う件がなんともいい雰囲気だった。佐田と若尾という会社跨いだジョイント自体に一期一会の儚さがある)。中盤、若尾が諸事に思い余って父を訪ねるとレコード係をしている惨めさ。若尾は会わずに帰らざるを得なかった。

明石の弟東野英治郎は若尾を預かり、嫁の岸輝子が憎まれ役で、自分の娘の縁談に差し支えるからと若尾の結婚話を急がせている。散髪屋の二階は岸の娘ふたりと若尾が同居し、「家のなかで泣いていられる場所なんてない」と若尾が嘆く件があった。「あたし、自分を諦めているの」。次女の中山姿子が岸の味方についているのがリアルだ。見合いを取り持った僧侶の山根七郎治が岸について、あんな婆さんなんかどうでもいいさと批評し返すのが痛快だ。批評する者も批評されるのだという気づきがある。

付き合っている石浜の実家は裕福な農家で若尾を嫌い、石浜の母の本橋和子は若尾に挨拶されてさっそく役者の父親の芸名を訊ねて若尾に恥をかかせる。兄の末永功は何かと難癖つける。石浜の留守に実家を訪ねれば、一家は若尾を家に上げず縁側で延々待たせる。こんな厭な想いを味合わされるのはメロドラマ特有の事態だが、余りに酷すぎて観客は抽象的に、自分もこんな目に合ったことがあるように思うだろう。若尾は厭なことは石浜に云わずに黙っている。厭な話をしたくない関係性が伝わってくる。若いカップルに重たい話が相応しいだろうか、と若尾が気遣うのだった。石浜が西瓜叩きつけて怒る件が素晴らしい。

見合い相手の田村高廣が存外に飄々とした善人で、若尾に幸福が訪れるという終盤はある種宗教寓話的で、真面目に生きていればいい人にも出会えますよということだろう(恋愛結婚より見合い結婚のほうがいいよと云っているようでもあるのが時代なのかも知れない)。無縁仏でいる若尾の母の墓をつくりたいと云って殴る積りだった佐田に気に入られる件がいい。若尾に「現在の生活のなかで幸せになるしか仕方ないんだ」と小さな鏡台をプレゼントし、若尾は石浜の形見の貝殻を捨ててきてくれと(自分で捨てずに)高廣に頼む。

楠田芳子は、一度目の幸福に失敗した者が二度目の幸福をどう掴むかを主題とした作家だったと長部日出男が卓見を述べている(「天才監督 木下惠介」)。『この広い空のどこかに』も『夕やけ雲』もそんな作品だった。そのように主人公は自分を許し、そうすることで他人を許す。

ラストの祭り。♪赤い帽子ついとくれ と周りが唄い、鬼が竹刀のような棒を振り回し、その先端を観客に触って貰うと子供が丈夫になると解説がある。鬼は若尾と高廣を突いて逃げ去り、若尾はお父さんよと泣く。彼女の不幸は去っていった。この鬼でもって本作の主題は寓話にまで彫琢された。とてもいいラストだった。タイトルは若尾の「最近は何をしても涙が出るの」という科白から。モノクロスタンダード。

(評価:★5)

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