[コメント] グレースと公爵(2001/仏)
絵画を背景に用いる手法は、映画の平面性、虚構性と共に、絵具をキャンバスに塗り込めた物としての絵画に潜む生々しいドキュメンタリー性を顕在化させる。歴史と映像の、革新と保守の間での、ロメールの徹底的な中間性。
絵画は、当時の人々が最大限に現実を描こうとした記録映像、「写真」であるということを、この活人画にして活動写真たる本作はまざまざと感じさせてくれる。グレースの邸宅に飾られている公爵の肖像画と、公爵役の俳優の顔が一致している、つまり美化して描かれていないということが、絵画と実写の同等性を端的に示している。
いまやCGの出現によって、現実をそのまま映す物としてのフィルムへの信仰(?)は揺らいでいる。つまり、自由に描く事が出来る、という意味で、絵画に接近している。そうした時代に制作されたこの映画は、絵画の写実性を示しつつも、それが他ならぬCGによって嵌め込まれたものであるという違和感をも同時に露わにする。この徹底的な中立、中間性。
この中立性は、革命の騒乱に対するグレースの立場にもどこか重なって見える。寝室に無防備で居るグレースに対する、革命派の靴音と声による音響的な侵犯が、巧みに恐怖を煽る。スペクタクルとしての破壊と死に熱狂する大衆と、グレースの、暴力のただ中に身を置きつつ、懸命に恐怖に耐えて、矜持を保つ姿。この事によってグレースは、その高貴な「身分」というよりは、慎みを欠いた熱狂から目を背ける、精神的な高貴さの体現者となっている。
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