[コメント] 座頭市海を渡る(1966/日)
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『真昼の決闘』の傍観者たちは当初から傍観を決め込んだ訳ではなく、いざという時に尻込みをしただけだ。彼等は自身の正義感との狭間で苦悩しつつも町の正義をG・クーパーに託した。そこに存在したのは、卑怯者か馬鹿正直者の2種類の人間だった。
たいした違いは無い。人間はその時々でどちらにも振れる。馬鹿正直者の保安官でさえぎりぎりまで心は揺れていた。
対して本作の傍観者たちはどうだったのか?彼等は当初から市とともに立ち上がろうという気はさらさらなかった。流れ者の市は利用すべき存在であり、市がもし斬り殺された場合は敵と談合する準備さえ考えていた。ここに存在したのは利口と馬鹿の2種類だった。
市は滅法強い。市自身は傍観者たちの加勢など必要なかったはずだろう。足手まといになるのが関の山だ。それに市は誰も加勢に加わらないだろうなんて事は承知していた。
本作で市はこれまでの幾人もの男達を斬り捨ててきた事を二度にわたり述懐している。「斬りたくて斬った奴なんか一人もいやぁしねぇんだ・・」だが、この決闘に及ぶ経緯は市自身にとって避けられる理由はいくつもあった。だが結局は村を救うという正義感が市を決闘に立ち向かわせた。
市は馬鹿だった。善良を装った利口な村人たちから利用されるだけの大馬鹿者だった。馬鹿は利口にはなれない。利口と馬鹿の2種類。人間とめくらの化け物という2種類。哀れなり座頭市。
決闘の後、市と村人との間のやり取りは一切描かれていなかった。市は村人から感謝の言葉の一つでも貰ったのだろうか?それとも彼等に加勢を懇願した娘は、加勢をして案の定死んだ青年の死の責任を問い詰められたのだろうか?
ラスト、市は孤独だった。命を賭けて村を守ってみたところで・・・剣が強いが為に、そして心が強いが為に誰とも心を通い合わすことが出来ない稀代の化け物「座頭市」。まさしく哀れである。
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