[コメント] ウェイキング・ライフ(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
想像して欲しい。
舞台がある。そこで役者が芝居をしている。迫真の演技。湧き上がる情熱。作り手のメッセージや世界観があなたの胸を打つ。これが普通の映画だ。もちろん芝居にはいろいろある。アタリもあればはずれもある。SFX作品もあれば一人舞台もある。けれど舞台の上で演じられているのは同じ、細かなベクトルは舞台の上でやりとりされ、全体として大きなベクトルがあなたに向かっている。
ここで別の役者が出てくる。舞台の袖に座り、いきなりあなたに話し始める。彼の世界観やメッセージを、ダイレクトに。あなたは応酬する。彼もまたそれを返す。これは会話だ。ベクトルは役者とあなたの間を行き来している。
状況が少し変わったとしよう。その役者とあなたはTV電話で会話している。だがこちらの音声は伝わらない。けれど、相手は話し続ける。全てのベクトルは一方的にあなたに向かっている。これはそんな映画だ。
ではこの作品は、ただの自己中心的な一方通行映画なのかと言われれば、決してそんなことはない。
「全てのベクトルが一方的にあなたに向かっている」ように見えるのは第三者から見た場合である。当事者であるあなたは、何とか相手の主張を理解しようとする。それが抽象的であればあるほど、表現しづらく、受け取りにくい。それをさまざまな角度から検証することで、あなたは相手の主張を徐々に理解していく。この時、あなたの頭の中に漠然と浮かびつつある像に対し、ベクトルはさまざまな角度から光を当て、像の姿を明確にしようとする。
重要なのはあなたの頭の中の「像」であり、役者の話でもなく、姿形や、風景でもない。故に全ての輪郭はあいまいで、全ての登場人物は定まらない。作品中に映画と神に関するエピソードで述べられたとおりだ。
主人公は壊れたTV電話の前でひたすら耳を傾けるあなたの投影だ。彼はひたすら話を聞き続けることで徐々に状況を把握していく。死でもなく生でもなく、ただ昇華してゆく。電話の向こうで役者が必死になって喋っている。全ては例え話でストーリーの本質ではないし、登場人物の人生を描こうなんてしていないのだから、プロフィールも不要だ。それをただ一方的に喋っているだけの自己中心的な映画―と見るのは仕方がないことだとも思うけれど、私には切ないほどピュアな思いを、ただ必死になって伝えようとしているように思えるんだな。
最高の作品だったっス。
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