[コメント] 蕨野行〈わらびのこう〉(2003/日)
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嫁と姑の古文調のやり取りは新鮮だがこんな方言が実際にあるはずもなく、つまり本作はリアリズムではなく高踏派の虚構として観よと、導入から念入りに示される。本作のリアルな肌触りのない漂白された撮影美術はそれに相応しいのかも知れない。
筋は『楢山節考』の変奏、年齢のきた老人がひとりではなく集団で山に入ってその後の話。主役の市原悦子は庄屋で、小作に恩情施す役回り。
生きている間は里へ下り村の手伝いをして食い物を交換するというルールは、このルールが問われる代わりに、石橋蓮司が兎の罠作り出して空文化する。御不浄という仏教の物忌は本作では特に意味を持たない。神社仏閣の類は登場せず、老人たちはほとんど祈らない。
最後になってにわかに性愛の主題が添付され、石橋が市原に告白して来世は夫婦とか云って抱擁している。肯定的に観れば、この大らかさは太古の記憶により呼び寄せられたということかも知れないが、いかにも唐突。そして死んだら体躯を抜け出して身が軽くなったと雪合戦を始めるのも唐突だ。この肯定への反転は「イヴァン・イリイチの死」が狙われたのだろうが、あのような感動はない。呆けてしまったのかなあという感想が残る。
結局、映画はこの隔離政策に肯定的な意味を付与している。これは老人たちに死を受け入れる心の準備をさせる仕組みだ、と作者は云いたいように見えてしまう。嫁の清水美那にはまだ若くて判らないのだ。年を取ると死が近くなり水子と再生時期の会話もできる(そういえば、清水の出産は結局どうなったのだろう)と。本作に描かれるのは恐怖政治に同調してしまう心情である。
見処は市原の、シカ左時枝という家を出て山人になった妹との再会の件で、なぜかここだけは深山の谷で撮られていて、撮影中に突然陽が陰りまた差し込み、後段では湿気にむせぶような秋の光景が捉えられ、まるでストローブ=ユイレのようにいい画だった。この山人の話をもっと描いてほしかった。一方、肝心の隔離小屋はエイジングが足りず促成で造作したのが丸わかりで興ざめ。終盤雪でうずまるのは驚きのあるショットだったがCGかも知れず。中原ひとみは子役から老人役まで一貫して可愛かった。
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