[コメント] エルミタージュ幻想(2002/露=日=独)
○作品の基体
今回のフィルメックスでの上映において、中心的問題としてプロデューサーも語っていたように、デジタル化が示して見せたところのものは、その作品の提示(映画の場合は上映)において、作品のクォリティーがソフトではなくハードに大きく依存するということである。しかし、ここで重要なのは、ハード面に問題がある、ということではない。ハード的な問題は時間と共に解決されうるだろう。むしろ重要なのは、ソフト面に物理的障碍が生じないということを、このことが示しているということである。デジタルソフトは、事実上、数字の羅列であり、観念である。ここに古代よりの形式−質料関係が失われる。ベンヤミンが見たアウラの喪失とは、「唯一のもの」という芸術作品の特性が、複製芸術によって失われることであった。この唯一性は、その作品の実存、すなわち基体によって保証される。複製技術芸術においては、アウラの構成要素の一つである単一性は失われるが、依然としてその実存は存続している。しかし、それはデジタル化によって完全に失われる。
○技術的欲求か映画的欲求か?
「みなさんに覚えておいて欲しいことは、この作品がワンカットで撮るために作られたのではなく、この作品を作るためにワンカットで撮ったということです」。これは上映前のプロデューサーの言葉である。しかし、ソクーロフはおそらく先に「全編ワンカット」という着想があったにちがいない。別にあったエルミタージュを舞台としたプランを、これと組み合わせたのだろう。この作品をワンカットで撮る必要性を感じた観客がいたとは思えない。主観ショットですべて構成することも、何十年も前に既に行われている。ただ、デジタル技術とステディカムが当時の制約を開放したにすぎない。しかし、概して独創性とは制約の下で生み出されるものである。無限に広がる視界は同時に無限に細部を縮小する。視界を制限するからこそ対象をはっきり認識できる。フィルムの量的制限とカメラの運動の制限から開放さたとき、映画的な何か、フィルムとカメラというツールによって生み出されるものとしての映画、的な何かが失われた。
○映画監督
ソクーロフは優れた映画監督である。しかし、それは彼が「映画」という名の下に形成されてきた領域と規則の下で創作を行っている限りにおいてである(フィルムを使っていない作品においても、映画的原則から逸脱しない限りそれは首肯される。むしろ境界侵犯をするかどうかという境域において、その魅力は増大する)。同じデジタル技術を使った作品である『精神の声』は、依然として映画的である。そして、それゆえに魅力的である。しかし、今回のように、新たな技術を最大限に利用し、未知の領域へと完全に踏み込んでしまっている状況においては、新たな原則を形成する、いや形成される必要がある。あくまでも映画世代であるソクーロフにそれは成し得るのか?事実、この作品において最も魅力的だったのは、ラストの光景であり、それは最も映画的−ソクーロフ的であった。
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