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[コメント] 女囚さそり 第41雑居房(1972/日)

前作『女囚701号 さそり』では、周りのエログロ騒ぎを物ともせずに終始一貫して「復讐者」であり続けていたさそりが、今度は徹底して「傍観者」であり続けます。
Myurakz

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 もちろん主人公だからストーリーには絡むんですが、その絡み方はあくまで受動的。セリフが2つしかないのは正にその象徴であり、最早彼女はただ「見るため」だけにそこに居続けているようにさえ思えてきます。

 しかしその「見る」ということこそが、実は白石加代子ら女囚たちを最も苦しめる行為となるんです。極めて一般的な「愛」という感覚の延長線上において人の道を踏み外し、「犯罪者」として一般社会からの好奇の視線に晒されることになってしまった女囚たち。彼女たちに「一般社会との隔絶」を思い知らしめる行為が正に「見る」という行為であり、だからこそ白石加代子は自分を見ている「一般人」と「さそり」に同様の敵意を見せるんです。「あたしらだけが特別なわけじゃない」と。

 しかし本当の「さそりの視線」は、女囚たちの感覚とはまた異なったところにあります。「隔絶の象徴」であるかのように思われたその視線こそが、僕には実は「共感の証」であったように思えるんです。「愚かな男によって狂わされた人生」という、自分と同じ十字架を背負った女囚たちを、さそりは「自分と似た者」として見続ける。同じ苦しみを知っているが故にそこには好奇心も同情もなく、ただ「同じである」という視線だけが存在するんです。だからこそさそりは彼女らと行動を共にできたんでしょうし、白石加代子との一瞬の邂逅を見ることができたんでしょう。

 そして更にいうと、我々もまたさそりのこの「共感」にも似た視点を通して、女囚たちを見続けていたんです。主人公を傍観者に据え、その視点を通すことで観客に傍役へのシンパシーを抱かせる。その手法がさそりという情念の物語と非常にマッチして、とても見ごたえのある作品になっていたと思います。

 ただ難を言うなら、その観点はどこまで行っても「前時代の男性が描く女性」的。女たちはあくまで「男によって狂い」、それに相対する存在もまた「男で狂わない女」というだけなんですよね。決して男を抜きに女を語ろうとはしない。まぁそもそもがそういう「情」のお話なわけなので、そこを抜きにしようというのが間違ってるんでしょうけどね。ただ「人をよく描けている」という言い方はできないだろうなと思います。そうではなくて、ただ「面白い」。これはこれでとても意義のあること。

(評価:★4)

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