[コメント] ビッグ・フィッシュ(2003/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
物語とは大抵の場合虚構である。
何故ならば、私達は何か伝えたいコトがある時いつも言葉で表現していくし、 表現していきそれを他者に共感興味を持ってもらう為には、それが事実を多分に含んでいたとしても、それに関して虚飾していきたくなるし、その虚飾の中で物語は更に面白さを増殖していくからだ。 つまり、物語を語る又は騙るコトは一種のコミュニケーションツールとしての役目も多種多様のカタチをも果たしていく。
その上で父親の虚構を吹聴していくコトを常心情とする生き方とは、自分が経験してきた良いコトも悪いコトも物語としてパッケージングするコトによりコミュニケーションを図ろうと言う楽しさを前面に押し出した生き方と言える。
それに対して息子はどうであろうか?。 息子も本質的にそこまで物語を嫌っているワケでは無い。 何故なら、父親の死の間際にあれだけ見事な虚構を作り上げるコトが出来るのだから。
ただ、息子にとって父親にはあまり嘘をついて欲しく無い、嘘をたくさんつく事によって自分以外の誰かにとってピエロであって欲しく無いと言う、少し子供じみた感がありながらも血の繋がっているもの同士としては普通に生まれる自然な感情を持つある影響を受ける対象に思う。 だってやっぱ父親が他者にとってピエロを演じていると言うのはある年齢に達した人間にとって少し気恥ずかしいモノであるしね。
こんな感じで少し関係が縺れてしまっていた二人は死の間際、父親は息子の話を聞き息子は父親に話を語る。 そうこのシーンは秀逸だ。 何故なら、今まで近づきたがってる、理解したがっていると他者からは見える中々近づかない二人が同じ場所同じ空気の中にいると実感出来るからだ。
死の間際に父親が自分の価値感と同じ場所で語ってくれる息子に対してどれ程その時最も近い距離を感じていたかと思うと思わず泣けてくる。 だってそれは自分の生きてきた物語を語ると言う人生が息子に受け継がれていく、自分の人生はまだまだ継がれていくと感じれる瞬間であるのだから。
そしてラスト、様々な人が葬式に集まり息子と何気なく会話をしている。 何気に父親のコトについて語っているのだろうなぁと思い思わず涙ぐむ。
いつだって物語は面白い。いつもそれを語る人がいてそれを聞く人がいて、後に継げていく事が出来るならその楽しさはいつも倍増するのだから。
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