[コメント] イン・ザ・カット(2003/豪=米=英)
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ヴァージニア・ウルフの『灯台』を講義で論じる中年女教師の秘められた欲望という主題性はいかにも女性監督らしいフェミニズム的な題材だが、作品の軸が半端なサスペンスにされているせいで、全体的に拙い。同じような主題であれば、フランソワ・オゾンの『まぼろし』の方が上等。
映画の冒頭辺りで、「スラングは暴力的かエロティック」という台詞がある。題名の「in the cut」は、「割れ目、 秘密の部分、安全な隠れ場所」という意味のスラングであるらしい。その中の「cut」(切断、切り分けられた肉、酷い仕打ち)は、劇中の女性バラバラ殺人を暗示している筈。「安全な隠れ場所」への侵入を許す事が、自分の存在を脅かされる事への不安と恐怖、疑念を生む、という女性心理を主題にしつつ、それをサスペンスの演出にも活かす。スラングがそうであるように、セックスは暴力性と表裏一体なのだという事。
立ち入り禁止の森の中の場面は、そのシチュエーションがまず「in the cut」(秘密の部分、安全な隠れ場所)な場所であり、そこでゴミ袋を拳銃で撃つのは射精の暗喩とも思える。マロイの入れ墨のスペードは男性器の暗喩か。スペードの‘3’であるのは、妻と夫と子の3人か。コインランドリーの洗濯機の口から血が流れ出す場面は、処女喪失時に流れる血、或いは月経の血を連想させる。そうすると、あの赤い灯台もまた、女の血に染まってそびえ立つ男根?
メタファーといえば、OPやEDで流れる‘ケセラ・セラ’は、ヒッチコックの『知りすぎていた男』で使われていた歌。子供の「大人になったらどうなるの?」というあどけない問いかけに母親が答える優しい内容の歌詞。本作がこれを意識していないとは考え難い。先述したような、男を受け入れる事の恍惚と不安、というテーマと絡んで、結婚し、子を産んで、家庭を築く事への、憧れと同時に感じる疑念や束縛感の暗喩として、この歌が挿入されているのだと考えるのが妥当だろう。
その点は、フラニーが夢で見る、スケートリンクでの父と母の婚約の場面が、後でスケート靴の刃での首切りになってしまうのも、同じ不安を反映した描写だろう。特に注目したいのは、幼子を入れた乳母車を象った飾りのついたブレスレット。これがまず、フラニーが通り魔に襲われた時に無くなる。その後、彼女はマロイと結ばれるが、そのマロイがあのアクセサリーを持っているのだ。フラニーは、男に襲われる事で、男への不信感に囚われるが、そうした危険から自分を守ってくれる存在であるマロイを、彼女の私的な領域(彼女の肉体、彼女の部屋)へ迎え入れる。だが、乳母車のアクセサリー(=家庭の幸福の暗示)が、そのマロイへの不信を招くのだ。
劇中の、歌うネズミ人形が可愛い。このネズミにヒゲが描かれているのは、マロイのヒゲを暗示するのと同時に、彼の相棒にして真犯人であるリチャードが‘ハウス・マウス’という渾名である事も暗示していたんだろう。
ヒロインの不安定な心理を反映するように揺れ動く映像の美しさや、血や死体のおぞましさ、肌の質感や場の空気感を生理的に訴えてくる映像は流石の出来。だがサスペンス的要素はいかにも拙く、結末も商業映画的な安っぽさが漂う。ジェーン・カンピオンの本来の才能とは方向の違う作風を無理に行なったのであろうぎこちなさが、どうしても拭えない。
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