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[コメント] ドリーの冒険(1908/米)

全カットが、固定のロングショット。しかし、被写体が人物であれば、そのキャラクターが容易に分かるレベルで捉えられた、云わばフルショットから少し引いたレベルの固定のロングショットだ。
ゑぎ

 また、ほとんどのカットで、固定された画面に、人物なりがフレームインやフレームアウト、あるいは、その両方を行うという動きが捉えらえれている。

 例えば、ファーストカットは、誰もいない公園のような場所の画面奥にある小さな階段から、娘のドリーとその母親、続いて父親が姿を現すショットで、このカットは母子が画面から右にハケた(フレームアウトした)時点で切り替わる。次の2カット目は、最初は池かと思ったが、後に川と分かる水辺と道のショットで、釣り竿を持った少年2人が画面奥に歩いているが、画面左から、母と娘がフレームインし、そこに、物売りの(バケツを売りに来る)男と、娘ドリーの父親もフレームインするのだ。物売りの男は盗人に豹変し、ドリーの父親から激しく殴られる。他にも、バトミントンをする父親と娘のカットで、母がフレームインした後、母と父が共にフレームアウトし、一人になった娘を先の盗人が連れ去るという展開があり、人物がカラになったところへ、母のフレームイン、父のフレームイン、他の人たちもフレームインするというこのショットは、この演出の徹底を感じさせれるものだ(というかこれしかできなかったのか?)。

 そして、連れ去れた娘は盗人の男によって樽の中に隠され、幌馬車で運ばれることになる。あゝ、グリフィスは最初の監督作で隠すことと露わにすることを意識して描いていたのだ。そう考えると、上で長々と例示したようなフレームインとフレームアウトの多用も(当時の映画演出の定番のパターンだったとしても)暴露と隠蔽への志向の現れじゃなかと思えてくる。さらに、川を渡る幌馬車の後部から樽が落下するが、馬車が止まらずに(盗人たちは樽−誘拐した娘の喪失に気付かずに)行ってしまうという展開が見事なツイストだ。この後、川を流れる樽のショットのみを繋いでエンディング(ラストカット)に持っていくところにも、私は感じ入ってしまう。それは、娘を誘拐されて心配する母親や、盗人を追跡する父親たちを見せない(隠蔽している)ということであり、もう一つ云えば樽−お宝を失って慌てふためく盗人たちをも見せないというプロット構成だ。これら後のグリフィスであれば、クロスカッティングで見せたかも知れない隠されたプロットが、見せられなくても想像できてしまう、これがいずれクロスカッティングで顕在化するのだと了解できる、というところが感慨深い。

(評価:★3)

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