[コメント] フォレスト・ガンプ 一期一会(1994/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
50年代初めに生まれた人が「このサントラは私たちよりもう少し上の人たちなら喜ぶかもしれないけれど」と言っていた。それが、一事が万事とも思う。映画の内容自体、リアルタイムを共有していた人たちに対する年代記としてなら成立しそうだけれど、新世紀がああいった不幸な幕開けを迎えてしまった今となっては、この映画は「アメリカ20世紀の総括」にはなってはいても、現在・過去・未来を通しての普遍性を持つことはできない。
なるほどベトナム戦争、東西冷戦、ヒッピームーブメント……そしてHIV(もしかしたら父子家庭も?)等々。アメリカという国家、社会が、時代というものとどう接してきたか、どう共にあったかが淡々と語られる。その視点や語り口は大アメリカとしては例外的にも思えるくらいに冷静で、ストレートだ。たしかに時代性とともにあり、とてもアメリカらしい作品なのは事実。
そして、この映画がクロニクルの領域で終わりたがってはいないことは、例えば「アメリカン・ドリーム」といったモチーフの登場でわかる。アメリカの「良心」「善性」を明示し、それが普遍的事実として遍在することを歌い上げる。これもまた、国生みの過程も神話ももたないアメリカが、影に日に常に求め続けていて、そして届かないモチーフの一つだ。
彼の国の年代記にしろ神話にしろ、当事者ではない私に積極的な必要性があるわけもなく、そういった意味では赤の他人の身の上話(とホラ話)のようなものだから、自然とその物語に対する関心は薄れていく。そして、ガンプがそれを補ってなお引力となるようなキャラクターだったかというと、いくつかの疑問が残る。
例えば、その総決算、神話、クロニクルの語り部が、いわゆる「知的障害者」である必然はどこにあったのだろう? なぜ、主人公の存在、語り口が、時代と出来事との関わり方が……いわゆる「健常者」のそれではいけなかったのだろう? アメリカ通史が真正面からの視線を受け止められないから? といってしまえば邪推が過ぎるにしても。
何かに対する、誰かに対する、エクスキューズとして、その「障害」が存在しているのだとしたら……猫の舌のザラつきのような、ちょっとした違和感が隣り合わせになってしまうとも思う。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (0 人) | 投票はまだありません |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。