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[コメント] くりいむレモン(2004/日)

生活者の心の深淵に潜む喪失感やコミュニケーション不全をデフォルメして見せることを得手とする山下にとって“典型的萌えキャラ”野々村亜美は強敵だった。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この作品までの山下の三作、『どんてん生活』『ばかのハコ舟』『リアリズムの宿』には、「お兄ちゃんの部屋で勉強していい?」などと気軽に言える人間は一切登場しない。むしろその一言を容易に切り出せない、気持ちを伝えられない、素直に表現できない者たちの業苦こそが山下のモチーフだった。

 後の『リンダ リンダ リンダ』のレビューに私は「山下はたぶん、人間を掘り下げたところに物語があると本気で信じていて、いわゆる脚本による『神の手』を極力排除しようとしているんじゃないだろうか」と書いたんだが、今作で山下が挑んだのは人間の掘り下げではない。既に、ある一方向のベクトルに向かって極限までデフォルメされたキャラクターの再解釈である。

 言うまでもなく『くりいむレモン』はエロマンガであって、エロマンガのキャラクターは基本的に男にとって都合のいい動きを求められる。その、男にとって都合のいい動きの先に葛藤や苦悩を抱くケースはあっても、とりあえずセックスをさせなければ話が前に進まないのがエロの宿命だ。

 だから、亜美はセックスをする。多少展開に無理があっても、それを獲得する。登場人物にセックスをさせるために物語は「獲得する以前」の葛藤や苦悩を切り捨てる。あるいは切り捨てるより前に、初期設定として「蛮勇」や「開き直り」を与えてしまう。この映画が不幸だったのは、この亜美というキャラクターが形成される過程で切り捨てられたニュアンスこそがまさに「山下的」であり、既に出来上がった亜美像を渡された彼がいくらその心の深淵を掘り下げたところで、そこにはデフォルメすべきモノは何も残っていなかったということなのだ。たぶん。

 それでも熱海のホテル以降のセリフの省略や編集における独特の間、ラストでのお兄ちゃんの勘違いダッシュなど、ふたりの関係性の面白さは断片的に現れていたとは思う。ただ、そのキャラクターに魂が吹き込まれる前に映画が終わってしまったという感じだった。

(評価:★3)

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