[コメント] Mの物語(2003/仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
例えばこの映画の上辺を眺め、また物語の表層だけをなぞって、薄ら笑いを浮かべながらキチガイ映画だとか、トンデモ映画だとか、或いは馬鹿の一つ覚えのように、やれシャラマンだの、アメナバールだのの名を出して、在りもしない類似性を得意気に(そしてさも被害者顔して不満気に)、商業紙面で指摘しているような批評家がいるのだとしたら、彼こそ即刻首をくくるべきで、その名こそ永遠に忘却されるべきであろう。
この作品を語るとき、まず想起すべきは、いわずもがな、ギリシア喜劇の、そしてジャン・コクトーの『オルフェ』である。だから私は、この映画は果たしてファンタジーだろうか?一種のホラーか?それとも単なる官能サスペンスか?などなどの問いに対しては、否、否、断じて否と答えたい。これはれっきとした散文詩である。新しい時代の神話である。より詳細に云えばウィリアム・リュプシャンスキーと云う名うての工芸家によって装丁された一冊の映画散文詩集である。
そしてリュプシャンスキーの青が深いから、ベアールが壊れるほどに美しいからといって、映像を鵜呑みにしてしまってはいけない。言葉を信じ過ぎてもいけない。そして証拠探しは一切してはいけないのだ。この詩が何を描いているのか?そして語っているのか?それは確かに半分までは語られている。しかし、その半分が、自らの脳中に無限に託されていることを、読み手は、強く認識している必要がある。(コクトーの『大股びらき』を読んでほしい。『恐るべき子供たち』を感じてほしい。どちらも素晴らしい暗喩に充ちた散文詩だ。)
例えば私だったらこういう風だ。男は、古い時計を解体しながら、振り返りもせず、こう云うのである。「重症では無い、繊細なだけだ。」 彼には予め、対象を強く愛する力と、すべてを受け入れる才能が備わっていたのだ。
そんな彼が遂に”振り返ってしまう”瞬間、つまり、証明を探し、答を急いだがために、けして失いたくは無い愛人を無情の理(ことわり)に寄って奪還される、その一瞬までを、冷徹に、無言のうちに、リヴェットはひたすら追い続けるのである。その残酷さたるや、これがスリリングで無いはずがあろうか?
また、ここに用意された裏切りの幸福を、悦びに充ちた結末を、私は祝福せずにはおられない。マリーは自らに課せられた行動を果たしたのだ。無論、それは涙を流すことでも、愛されることでもない、彼女自身が”愛する”ことであったのだ。
愛とは即ち芸術である。そして芸術は愛することだ。芸術家はかろうじて愛することで、その強引に押し付けられた生をなんとか真っ当する。ユイスマンだろうが、カミュだろうが、セリーヌだろうが、ブコウスキーだろうが、彼らは皆一様に何かを愛していたのである。愛し、ひたすら強く夢想し、それが一筋縄にいかぬから、そこに詩性が現出するのである。詩人は血を流す者への呼称なのだ。
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