[コメント] 人生は琴の弦のように(1991/中国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
一言でいって「ダイナミック」。
表面的なセリフ回しとは別の階層で、映像によるストーリーが着々と(かつ雄弁に)展開されている。が、そうであるが故に分かりにくい。もっともここでいう「分かりにくい」とする部分が、本当に「分かって欲しい」部分だったのかどうかははなはだ疑問だ。そもそも他人の人生なんて「類推する」以上のことなんてできないんだから、「表現する」という意味において(そうしたいのならそれで)これ以上分かる必要もないのかも知れない。
それにしてもこの風景には圧倒される。
「見えない」盲(めしい)が、それでも確固として存在するが故に、「見えるもの」としての風景は尚一層雄大で、比較するに人という存在はあまりにも小さい。それでもその内なる世界は、けだしその大地にも劣らず広大で、それは盲ていようがいまいが、その広さには何の関係もないはずなのだ。
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追記1)千本の弦を弾き切れば見えるようになるというのは大変な呪いだ。それに対し「僕は僕の出来るところまででいい」としてかわした弟子は、代わりに娘の手紙というこれまたとんでもない呪いを受ける。どっちもごめんこうむりたいが、所詮人は何かしらの呪縛に縛られて生きるものなのか。
追記2)老人が「神」と呼ばれるのなら、川の渡しは彼岸と現世を結ぶ象徴のハズだ。店の主人はいったい何を司り、主人の妻は老人の何を癒してくれるというのだろう。店の家人は何を嗤い続け、何を泣くのだろうか。
追記3)先日「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の評価を大幅に下げて書き直した。制作者側のオゴリに辟易したためだが、思うに観客の主観よりも自分の中でどこまで掘り下げられるかにこだわる―という自己中心的な姿勢において、これらの作品は似たり寄ったりと言うこともできる。なのに一向に不快感を感じさせないのは、方やその手法と表現を見せびらかす事に終始し、方や玄関を開け放したまま思索に耽る姿をさらけ出していることの相違に思う。
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