[コメント] 水俣 患者さんとその世界(1976/日)
事象ではなく、事象のなかから何を対象として選ぶか、その対象に真摯かつ執拗に密着することの重要さ。告発される側はいかようにも逃げ隠れできる。患者は逃げ場どころか命すら奪われた存在だ。その時、何を撮るべきなのか。答えは患者のために患者を撮ること。
きっと土本典昭は、そんな自問自答のすえに患者さんたちに寄り添ったのだろう。何をどんなに声高に叫んだとしても、加害者を告発できるのは、土本ではなく患者たちなのだから。映画にできることは、患者たちに密着し、彼らの困惑や、諦めや、怒りを記録し続けることで「奪われた人びと」の困惑や、諦めや、怒りを共有することだったのだろう。それはなによりも怒号とご詠歌にまみれた、あの株主総会のカメラの立ち位置が物語っている。
ここで重要なことは、告発されているのは時の加害者だけでなく常に私たちだということだ。三十年前に何かを学んだつもりになっていたはずなのに、げんに今、不誠実な自動車やガス器具といった工業製品が私たちの日常に潜んでいたではないか。危うい食料品がいつの間にか密かに流通していたではないか。私たちは、いつでも加害者にも、被害者にもなり得るということだ。だからこそ、この映画は三十年以上たった今も、意味を持ち続けるのだ。(2008年記)
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