[コメント] プレデター(1987/米)
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ジャングルでの狩猟。狩る者は獲物を死角から銃により攻撃する。獲物にしてみれば不意打ちを喰らわされたことになり、敵とは、見えざるものである。とすれば狩る者と獲物との関係は「見えざるもの」と「見えるもの」との関係となる。故に銃は狩猟において非常に便利な道具である。銃を所持することで「見えざるもの」という優位性を獲得できるのだから。
しかしこの関係は熊には通用するがプレデターには通用しない。目に見えないものを狙いようがないから銃は無用である。そればかりでない。プレデターからしてみれば、己の獲物を、銃をもつ者として識別しているのである。プレデターは未知の惑星であろう地球に狩りを目的にやってきたわけであり、そこでどんな生き物が生息しているのか、彼らはどのような武器を所持しているのかについて情報を探る。結果としてプレデターは銃を持つ者を獲物として認識しているのである。つまり、狩りをする為の武器である銃を所持することにより却って己自身が獲物となる。銃を起点として支配構造ががらりと変わるのだ。
銃を持つことにより獲物という烙印を押されるだけではない。「銃」を持つことで、「見えざる者」はますます存在が見えなくなるのである。例えば、プレデターの存在をいち早く知ったのも、プレデターが残した血痕に気付いたのも銃を持たない現地の少女であった。さらにコマンドー部隊の黒人の軍曹の最期の場面。誰よりも注意深く眼も利いていたこの男はプレデターの存在を遠くから見えていたにもかかわらず、結果的に実はプレデターは目の前にいたというオチで彼も獲物として狩られることになる。銃に依存を深めていくことで理性も動物的感覚も失いまさにただの獲物化となるのである。
とすれば銃に依存している者から順に狩られるという方向性は正しい。あのジャングルでは銃はもう使えないので他で勝負しないといけないわけである。トランプの大富豪で例えて言うとこの場における銃というのはもっとも強力なカードである「2」が革命によって無用化したどころか捨てるに捨てられない「3」になったようなものだ。
だからこそ最も銃に依存していないネイティブアメリカンのビリーという男こそこの映画の本当の主役とも思える。シュワが偶発的に銃を放棄したのに対し、彼は自発的に銃を放棄してプレデターと1対1で対峙したのだから。彼もまたプレデターに敗北したが彼は獲物として狩られたというのではなくプレデターと対等の意味で戦士として敗れたと解釈するのが正しいだろうし、プレデターも彼にある程度敬意を払っていたのも納得できる。
ではプレデターにしてみれば「銃」はほかにどういう意味合いをもっているのだろう。 銃は獲物の標識だけでなく、勿論攻撃の手段として認識していることになるだろう。 つまり「獲物=銃を撃つ者」という認識を持っていることになる。とすれば銃を放棄したシュワが弓矢により攻撃するとなればプレデターにとってそれはどういう意味合いをもつのか。「獲物=銃を撃つ者」という認識が固定的に定着されていれば彼にとってまた新しい武器をもつ者がほかに生息している、ということが言える。これは言い換えるとプレデターにとって「見えざる敵」が存在しているという錯覚が生まれるということだ。 とすれば今度はシュワがプレデターに対して優位性を獲得するということになる。だからこのような原始的な武器である弓矢、丸太が強力になる、というのも必然的である。この場でプレデターのクーデターにより弓矢、丸太のような本来では使えそうにもない「3」、「4」というカードが強力となったのだから。 こうとらえるとあのハイテク武器を装備したプレデターが丸太で仕留められるという結末もおいおいと思わず突っ込んでしまいがちだが正しいものと解釈できる。「銃」を起点に全体を総括すると方向性も至極正しい全うな映画である。
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