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[コメント] コースト・ガード(2002/韓国)

刃で身体を分断するのではなく、突き刺す。それが、ギドクの方法。 2013年10月3日DVD
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画の中心的なテーマは「南北分断」ではない。むしろそれこそが寓話である。本質的なテーマは、むしろ「我々」が、何から分断されることで「我々」足りえているのか、ということであろう。そのことをギドクは、二つの次元(文字通りの「南北分断」を加えるなら三つの次元)の「分断」を通じて描き出す。そして、そのことの空虚さを描き出す(過剰な“しごき”を軸とした軍隊教育!)。

つまり、「歴史」によって喚起されて再構成されてゆく現在があり、一方で忘却される対象としての「歴史」によって成立する現在がある。これらは、両方とも歴史から分断されている。過剰に「歴史」に関わるという点において、また、過剰に「歴史」と関係がないという点において。

これらの両者に共通しているのは、「歴史」から断絶されることで、「敵・外部・他者」をつくりだし、そのことで「我々」を確固としたものとしようとする努力である。過剰な「歴史」が、現在を「歴史」から分断し、一方で、豊かな現在が「歴史」を過去として分断する。ギドクは、過剰に「歴史」を意識する我々と、「歴史」から平和に距離を取る我々とを一挙に串刺しにする。

この映画は、「南北分断」に関する映画の体裁を取っている。だが、描かれているのは、むしろ「敵」に関する事柄である。つまり、本作品は、「分断(=歴史)」によって発生した「敵」についての物語として見ることができる。

部隊によって脅威の存在=敵である「PTSDに苦しむ発狂した兵士」という異質な存在は、同時に、かつての仲間であり、その意味で同胞でもある。いわば、最も遠い存在としての敵(=他者)と、最も近い存在としての味方(=我々)がイコールになる所にこそ、「敵」という像の肥大化が生じる。それは、例えば森達也が『A』で描いたオウム真理教の姿とどこかダブって見えさえするのも、偶然ではない。

象徴的に何度も挟まれる、兵士たちが朝鮮半島の絵の上でボール遊びをしている(真ん中に鉄条網がある)シーンは、映画の序盤ではあくまで「南北分断」の構図に見える。しかし、実際には、「分断」そのものではなく、「分断」によって発生する「敵―味方」という構図が喚起するイメージの問題――つまり、歴史の問題としてではなく、イメージをしてしまう我々自身の問題――として描かれていることが分かる。つまり、南にも北にも「仲間」が居るという悲劇的な事態の描写であると同時に、あるいはそれ以上に、そこでの敵は、「敵」と呼ぶにしては近すぎる存在である。

この、「あちら側」にも「こちら側」にも同じ民族(同じ人間=味方)が居るというエンディングは、ストレートに解釈すれば、「南北統一」という歴史的悲願として理解できる。単なる歴史的悲劇のメタファーだ、と。しかし、実際には、それ故にこそ「敵」が近すぎるものとして現れ、それ故に「敵」への憎悪と恐怖が喚起される。だから兵士たちは、かつての「仲間」のみでなく、自らの子どもでさえも簡単に殺してしまえる(ここで腹の中の見知らぬわが子は、わが身を脅かす「敵」である)。ここには、「南北」という分かり易い歴史的悲劇を超えて、むしろ悲劇の発生構造にまで踏み込もうとするギドクの眼差しがある。

このシーンや「コーストガード」という任務が象徴しているように、この映画での「敵」のイメージは、次の三つの要素を含んでいる。第一に、実態を持たないこと。第二に、我々と似ていること。第三に、恐ろしい何かであること。

そして、これらは先に言及したように、「分断」という歴史ではなく、むしろ歴史によって喚起されるイメージによって構成されている。その意味で、ここでの戦いは、どこまでも「歴史」から分断されている。

もう一つの分断は、ラストシーンに関係している。

このCinemaScapeにおいてハイタカ氏も言及しているように、そうした肥大化した幻想としての「敵」に向かう刃は、それでもなおソウルの平和な若者の体にしっかりと突き刺さる。ここで「分断」は、歴史についての問題としてあると同時に、歴史と我々(=現在)との間の問題としてもあるのである。ギドクが立ち入り禁止区域(=田舎の漁村)と都市とを対置する時、それは物理的な距離をメタファーとして、実際には、恐らくそうした歴史的な断絶の問題に言及している。このことは、PTSDを患った途端に、彼氏から距離を取る女子大生の姿との関係にも、象徴的に表れている。

だから街中の彼らは、軍隊を笑う。見世物かのように、笑う。軍隊は、そこでは不可思議な他者である。敵でも見方でもなく、単なる「他者」である。現在進行形の「歴史」が、そこでは肥大した現在によって見えなくなっている。

だから、最後の刃は、歴史と現在を繋ぐものであるともいえる。いわば、「現在」への受肉。(もっとも、彼は新たな「敵」として、社会から排除されてしまうのだろうけれども。)

とは言え、これもこれで、本作を過大限評価した見方な気がしないでもない。というのも、この映画、正直そんなに面白いとは思えなかったから。

この映画は、随所にギドク的なモチーフが散乱している。文字通りそのまんま『魚と寝る女』であったり、海(=『悪い男』)、水(水槽)の中に佇む(=『』)、あるいは南北の問題は『ワイルド・アニマル』であり、上述の現実と現実感覚の乖離については『リアル・フィクション』に繋がる論点なのかもしれない(『リアル・フィクション』はあまり内容を覚えてないけど)。

だけど、それらは散乱しているようでいて、どうにも収まりが悪い気がしてならないのは自分だけだろうか。結果的に、それらのモチーフとギドク一流の寓話的感性と現実へのメッセージが有機的に関係を結んだかというと、その点については言葉を濁さずにはいられない。

とは言え、この次の年に、彼は『春夏秋冬そして春』という傑作を撮り、さらに『うつせみ』『サマリア』『』と次々に衝撃的な傑作を発表する。そういう意味では、この『コーストガード』までが、ギドクの「初期作」という括りなのかもしれない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)DSCH ぽんしゅう[*]

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