[コメント] 蜂の旅人(1986/仏=伊=ギリシャ)
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トラック運転の中年男と娘なら『ヘッドライト』(重要性のない人々)だが、本作は全然違う。娘はギリシャの中年の子供など決して孕まないだろう。ジュークボックスで踊る娘(ナディア・ムルージ)をマストロヤンニは自分のトラックに同乗させる気になる。彼女のアメリカかぶれは、アンゲロプロスの過去作では嫌悪される存在だった。『旅芸人の記録』のパーティのテーブルから少年が引き抜くクロスは星条旗だった。だから本作の主題はアメリカに逆ファックされるギリシャ人だろう(イタリア人マストロヤンニの召喚はこれを曖昧にしているが)。
娘はマストロヤンニの宿に転がり込みベッドに誘う。相手しないマストロヤンニ、判ったわパパと娘、ジーンズ履いて幼馴染のミハリス連れ込み、ツインベッドの隣でセックスを始める。娘を捨てて移動しても行く先を知られていて追いかけてきて(偶然に会っただけかも知れない)、優しいのは貴方だけとか云って鬚剃りのローション塗っただけで去ったりする。娘を見つけたレストラン、アメリカのポップスがかかっている。ここへダンプで突撃する。娘を奪って船上のベンチ、洋楽を口ずさむ彼女に、あたかも歌を止めさせるかのように手を口に当て、強姦未遂に及ぶ。
マストロヤンニが何か回想の場所(民家の中庭)から戻ると、トラックで販売している酒呑んで娘は酔っ払っている。アメリカのロックがかかっている。「過去の旅人さん、私は過去がない」マストロヤンニの掌を噛んで血を吸う。続いて線路から地続きの廃映画館の舞台に泊まるのも、ハリウッド産業への敗退を図式化しているだろう。娘は裸になりアメリカン・ポルノが始まるのだ。娘は歌を唄ってよと云う。「歌は知らないんだ」(!)とマストロヤンニ。それでもせがまれて口笛を吹く「歌詞を忘れた」。そして娘主導のファック。最後は娘が「旅立たせて」とか云って一方的に去る。もう骨までしゃぶったのだろう。
病床の友人を夜中に酒持って見舞う件がある。昔話ばかりしているという噂、ノルマンディ、48年の闘争時代と監獄生活。次には美しい海辺で三人。病人の友は感情を高ぶらせる。「俺は歴史とすれ違ってこのザマだ」「悔いていないよ。この国に来て、世界を変えられると信じた」。アンゲロプロス初期の革命映画はこんな具合に座礁している。
DVDの付録でアンゲロプロスは語っている。独裁政権下、私は希望に溢れていた。独裁政権終了後、かえって希望がないと知った。だからメランコリックな場面が自分の作品には多いのだ。本作はそういうタッチである。財産作りしたと云われた三人目の友人は浜辺で服を脱ぎ続け、ついに素っ裸になって3月の海に飛び込む「みんな俺に続け」。なんたる戯画。収束のマストロヤンニも彼に続いた訳だ。エメラルドの海と向こうの青い山の美しさ。
予告された蒸発みたいなものか。マストロヤンニは冒頭から鬱であり、鬱のまま死んでゆく。彼の娘の花嫁はフレーム外の鳥を追いかけ、いなくなったと暗い顔をする。妻はマストロヤンニを認めて階段をよろめいてトレイのコップを全部割ってしまう。結婚式は新郎新婦の出立より先に客たちが帰ってしまうという不思議な終わり方をする。
中盤、マストロヤンニは小さなアパートで妻マリアを迎えに来て抱きよせて、しかし直ぐにサヨナラと去る。ガソリンスタンド勤めの彼の娘に詫びに寄る。軍人だった娘の亭主もツナギを着ている。軍人に嫁いだのにガソリンスタンド。全てがアメリカナイズされてしまった。
マストロヤンニはひとり仲間と蜂蜜の商売。移動して停泊する処では、平地に等間隔に蜂箱を並べる。天日干しをするのだろうか。蓋を開ける訳ではない。強風が吹けば駆けつけて、蓋が飛ばぬよう石を置く。ラストでマストロヤンニは岩山に並べた巣箱を次々にひっくり返して蜂に纏われて倒れる、その手のアップから蜂の舞う青空へパンアップして終わる。アメリカに毒された者がこんな手仕事などしているのは時代遅れになった。メランコリックな死なのだった。劇伴はサックスとピアノの非ロック。
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