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[コメント] スクラップ・ヘブン(2005/日)

映画は僕にいう。「想像力が足んねぇんだよ」。――そして、「想像力が<私>を奪う」 2007年12月24日DVD鑑賞
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







かつて村上龍はその著書『69』で、佐世保北高校をバリ封したケン(≒村上龍)に、屋上からその垂れ幕をさせた。

「北高を望む坂の下まで来ると、垂れ幕が見えた。  『想像力が権力を奪う』  感動した。自分達の力で、見慣れた風景を変えることができるのだと知った。」 村上龍『69』集英社文庫、1990

スクラップ・ヘブン』でしばしば強調される「想像力」という単語を聞いていて、ずっと『69』のことを思い出していた。(偶然か、或いは必然か、李相日は『69』を映画化していることも思い出していた。)

だが、69年の「あの頃」、爆発“しそう”だったヤザキケンスケの“エネルギー”は、70年代を迎えるとそれは爆発してしまった後か、もしくは縮小したのか――とにかく時代は過ぎ去ったようになる。そして、今、この00年以後にあるのは、「あの頃」と異なる爆発“しそう”な“憤り”。

だけど、<いま>は、「あの頃」のように犬死することは許されない。自分で自分の始末をつけるように殴られこそしても、大勢の「誰か」に蜂の巣にされて殺されて、その犬死がアンティ・ヒーローとして取られることはない。犬死という反体制的な「彼」ではなく、犬「生」という自覚的に、しかし日和見になることしか出来ない「爆発できない私」というディレンマ。アンティ・ヒーローには永遠になれないアンティ・ヒーロー。

オダギリジョーはカッコ良かった。栗山千明もカッコ良かった。

だけど、彼らはヒーローではない。「想像力」を欠いた僕らは、「想像力」に溢れた彼らを前に理解不可能性を感じてしまう。「想像力」を働かせまくる彼らが言う。「一緒に行こう」。だけど、「僕ら」の側は、決してその誘いに、彼の車に乗ることなんか出来やしない。「想像力」の結果、ヒーローはヒーローになれず、ヒーローを求めた我々は現実に回帰していくしかない(そして、そこから爆死=脱出を試みても、抜け出すことは容易に許可されない。また、抜け出したら戻ることも容易に許可されない)。

爆発しそうだけど、爆発できなくて(もしかしたらもう爆発していて終わっちゃっただけなのかもしれないけれど)、ただただ「想像力」を求めることしか出来ない――そんな「想像力」を欠いた僕たち。 自由だからこそ、自由にはなれないという逆説を感じながら、何も出来ず、ただ「そうある」ことしか出来ない、決して発散されることのない苛立ち。

「想像力が足んねぇんだよ。」

痛すぎる言葉が深く刺さる。だけど、「想像力」がないから、僕は――紛れも無い「僕」は――ここに居る。あのラストは、あまりに辛い。

最終的に自暴自棄になっても、トラックが通ることさえ「想像」できなかった自分の「想像力」の無さに永遠に「飼い殺される」しかないのだろうか――?

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)chokobo[*] ぽんしゅう[*]

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