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[コメント] 春の雪(2005/日)

美しい映像の流れを追うだけで、音楽を味わうように心地好く、二時間半を飽きずに済む。物語の節々での清顕の心理を表情で見せた妻夫木聡、清楚な振舞いの内に閃く意志の強さが色気を発する竹内結子、共に予想以上に良し。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作は、粗筋だけは知っているが、未読。ただ、恐らく三島がコンスタンやラディゲ風の筆致で描いているのであろう清顕の心理は、脚本、演出、演技で、それなりに伝わってきたように思う。その辺りは原作を読めば全く評価が変わってしまう可能性もあるが、取り敢えず、この映画だけの印象で以下、批評してみたい。

冒頭、清顕は本多と空を眺めながら、「幸福」について話している。清顕は、心を充たす何かが欲しい、と呟き、本多は「君のような完璧な人間が、何が不満なんだ」と答える。この場面で既に、「完璧」であるが故の空虚感というものが仄めかされている。そうすると、清顕の望みとは、「完璧」である事への破壊願望、という形で表れるのは必然だろう。「欲は人を喰い尽くす」と諭す本多に答えて言う「むしろ食い尽くされたいよ」に、その思いが如実に表れている。

清顕が、聡子が自分に思いを寄せている事を知りながら邪険にするのは、彼女の思いにそのまま応えるのは、余りに容易すぎ、事の運びが「完璧」すぎるからだろう。そして、この「完璧」を壊すには、「不可能」を望む事しかない。この物語に大団円など、元からあり得る筈がない。

例えば、清顕はそうした捻くれた心理から、聡子に、自分は女中と関係を持ち、遊郭にも通っている、と告げる手紙を送る。が、後から思い直して、聡子の綾倉家にいる侍女・蓼科に、手紙は開かず処分してくれ、と頼む。その動機というのが、タイの王子に、恋人はどんな人か、と訊かれ、答えに窮していると父に、こいつはまだほんの子供なので、と、男として未熟者扱いされた事にあるのだ。手紙に書いた事柄も、その父から、一人前の男になれと言われての行為なのだ(本多はこの話を嘘と決めつけるのだが、観客には真偽は明かされない)。これ以外にも様々な場面で、清顕の行動は、自らの意志で何かを征服したいという欲望を動機としながらも、その一つ一つの行動には、他者の言葉が働いている。

清顕の手紙は、実は聡子に読まれていた。彼は、その事を知らずに優越感に浸っていた気持ちを逆撫でされ、怒りに駆られる。事態を操る主体が自分でない事は許せない、とでもいった様子だ。それから後、聡子から送られた手紙は、実際には破棄していたのだが、それを公表すると脅して、宮家と婚約を交わした聡子と逢瀬を続ける。これは聡子や蓼科への復讐ともなるのだが、むしろこの事によって、聡子は恋する男と契りを交わすのであり、蓼科でさえ、綾倉伯爵から過去に受けた頼みである「成り上がり者の松枝が用意する相手に娘を渡す前に、娘が望む男に操を捧げさせてやってくれ」を図らずも実現させる事になる。皮肉なのは、綾倉伯爵はこれを「みやび」の復讐と呼んでいたのだが、その「みやび」そのものである宮家と結ばれる筈の関係が、これによって断たれてしまうのである。

この逢瀬によって聡子は清顕の子を孕むが、聡子は「清様の為」と言って、彼に秘密にしたまま子をおろす。清顕は、手紙の時と同様、自分が事態を操っていた筈なのに、知らぬ間に聡子の掌の上に乗せられているのである。清顕自身の撒いた種が、彼の知らぬ所で芽を出し、しかも密かに摘みとられるのだ。行動する者であろうと望みながらも、結局は宿命に翻弄されるだけの存在でしかあり得ない、清顕。自らの意志を貫徹するのは、むしろ聡子の方なのだ。

だが、その聡子が最後に、これもまた自らの意志で出家し、仏という究極の彼岸に身を置く存在となった時、彼女の掌の上にある清顕は、彼が心中深くで望んでいたであろう「不可能」、絶対の不可能に包み込まれるのだ。聡子を受け入れ、清顕を拒絶する月修寺門跡は、映画の冒頭から、この二人を母のように見守ってきた存在だ(二人の実母は、どちらも存在感が希薄である)。そして、その冒頭の場面では、この三人は庭園で、小さな滝の下の池で死んでいる犬を見つけている。聡子と月修寺門跡は合掌し、清顕はこれという表情もなく見つめている。この犬は、映画の最後、本多に「滝の下で、もう一度会うぜ」と言い残して死んでいく清顕の運命の暗喩になっていたと言えるだろう。その意味では、原作の“豊饒の海”四部作が続編として映画化されるまでもなく、この映画一本で、「不可能」に挑んで犬死する清顕の物語としての円環を完結させていると言える。尤も、そうであればあの犬の死骸の場面は、もう少し印象的な絵として撮っておいて然るべきではあった。

犬を供養しようと花を摘む聡子が、死んだ蝶を見つけ、「美しいが故に儚い命なのですわ」と呟く言葉は、まるで清顕の死に様に向けた言葉のように聞こえる。「ただの虫じゃないか」と突き放す清顕に、聡子は「命あるものには変わりありませんわ」と、犬と一緒に供養しようとする。これは、後に出家する聡子が、最初から輪廻的世界に足を踏み入れている事を示唆してはいないか。清顕はこの輪廻転生というものを、後からタイの王子に聞かされて知るのだが、そのタイの王子が恋人だと言って清顕に見せる写真は、聡子にそっくりだ。聡子は、仏の国、彼岸の女。このタイの王子に「君はあの女性の為なら死ねるだろう」と言われたままに死んでいく清顕は、最初から仏の掌の上で転がされていたのだ。

そう見ていくと、劇中の「仏陀も何度も生き物として転生を繰り返して仏となった」という台詞は印象深い。蝶のように儚く、或いは犬のように無惨な死骸をさらす生き物たちと、絶対の彼岸の存在である仏。清顕ら人間たちからは隔絶しているように思えるこの二つも、共に一つの世界の内にある存在なのだ。「絶対」を追って生まれ変わりを繰り返そうと望む清顕たちは、蝶のような儚い命から、仏という、永遠の絶対性へと向かう、長い道の途上にある。

最後、聡子を追って旅立つ清顕は、祖母の神棚から金を持っていくが、この金は祖母が、「戦死した息子たちの流した血を犠牲にして御上から賜った金だと思うと、手が出せない」、と言っていた金だ。国の為に死んでいった息子たちが、御上から、死と共に賜った金。それを手にして聡子の元へ向かう清顕もまた、お上を介して聡子という女を「不可能」な存在へと高めたのである。「みやび」に殉じつつも、反逆し、冒涜する事で、絶対を垣間見る――この順逆不二の美学こそ、まさに三島由紀夫の美学。

(評価:★3)

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