[コメント] わが青春に悔なし(1946/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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黒澤明監督の戦後第一作。男を主人公とすることが多い監督作品にあって珍しく女性が主人公の物語だが、女性の権利をしっかり見据えて作った作りが新しい時代に適応し、大いに受けた。
原節子が初めて汚れ役に挑戦したと言うことでも話題となった作品でもある。その相手役野毛役の藤田進は黒澤監督のデビュー作『姿三四郎』(1943)及び続編の『続 姿三四郎』(1945)の三四郎役だが、一方では国策映画のスターでもあった。それを敢えて起用した(しかも左翼学生役で)のは、世間からは違和感をもって迎えられたが、「これだ!」と認めた役者を使い続ける黒澤監督らしい起用でもある。
それまで国策映画を作らされていた日本映画界だったが、終戦を機に、その様相はがらりと変わった。それは良い意味でもあるが、時々悪い部分もある。特に「さあ、これからは好きなように映画を作られるぞ」と意気込んだ監督にとっては、面白くない事態が生じてしまった。
それが組合の存在というやつ。
会社のやり方に対し、公然と抗議行動が出来る機関として組合はとても大切だ。だが、悲しいかな、戦時体制が長すぎた日本はそれに慣れてなかった。結果として組合が暴走。会社側にも監督にも容赦なく抗議が舞い込んでくる。
尤も職人芸的な映画界だけあって、そんなもの一々聞いていたら映画など出来はしない。少なくとも監督の力量は非常にスポイルされてしまう。それまでそれをねじ伏せていた側としては、ありがたくない状況が出現してしまった(東宝の争議は長引き、結果的に「新東宝」と言う別会社が出来てしまうし、東宝の監督であったはずの黒澤監督が他会社で何本かの映画を作ったのもそれの煽り)。本作はその影響をモロにかぶってしまった。
それまで体制に押しつぶされた人を描くのはタブーとされていたので、それを撮れるようになったのはありがたい。だが、組合の側の主張からすると、押しつぶされるだけでは駄目だった。主人公を体制と戦う存在として撮ることが大切になったのだ。
本作はその影響を受けた形で製作されることになった。そこには黒沢監督の並々ならぬ努力が必要となった。どれほどの大監督であろうと、組合がそのシナリオをじっくりと読んで、表現上好ましくない(軍国主義時代の気分が抜けないことや、民主主義を揶揄する)部分は容赦なく切られてしまう。
かつて軍が行っていた検閲を、今度は逆方向に組合が行うことになってしまった(勿論これは混乱期にある時代だけで、今は随分緩やかになってるし、それでも軍に映画製作が牛耳られているよりはずっと自分の思いを出すことは出来たはず)。職人芸である映画製作にも民主化の波が押し寄せてきた。
結果、監督達が望んだほどには自由に作品が作られなくなってしまった。
思いもしなかった事態に陥り、黒澤監督も相当に面食らったようだ。それがよく現れているのが後半の田植えのシーン。全然違ったシーンを撮るはずだったのが、組合からのクレームによってごっそり削り取られてしまい、結果的に国民的女優原節子の「汚れ役」という構図ができあがった。その部分が一番評価されたと言うのが何とも微笑ましいエピソードでもある(持論だけど、本物の監督というのは逆境をパワーにして、普通に撮るよりもかえって良いものが撮れる実力がある。黒澤明という監督の本物ぶりを遺憾なく発揮したエピソードだと私は思っている)。
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