[コメント] 酔いどれ天使(1948/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「お前の肺は、この沼みたいなものだ」と、ゴミを流し棄てられる沼を指して松永(三船)に言う真田(志村)。お前の周りには蛆みたいな連中がウヨウヨしている、お前の肺だけ治そうとしても無理だ、と。この、病を治すにはその人間の置かれた状況をも改善しなければならない、という主張は、黒澤と三船が最後にコンビを組んだ『赤ひげ』で、より強調されていた事だ。だがその中で三船は、この作品とは逆に、彼自身が未熟な青年に教え諭す年長者の立場に居た。
松永の兄貴分・岡田も、反面教師として若造に現実を教える立場の存在だとも言える。力を失い、自分のシマが奪われた事を知った松永。そして岡田がギターを奏でているショットに。この、毎夜、医者の家の近くでギターを弾いていた不良に「貸してみな」とギターを取り上げて見事に弾いてみせたこの男の、ギターを弾く、という行為にその年季の入ったワルとしての権威を象徴させるというのが何とも巧み。
白いペンキに塗れて岡田と廊下で格闘する松永。黒っぽい画面に純白を撒き散らす事で、強烈な「血」の印象を感じさせる。そして、岡田に返り討ちに遭って刺された松永が開いた扉の向こうの、澄み渡った町の空と、風に棚引く白い洗濯物。更には、真田が松永の為に買った卵の白さ。
その後、松永に想いを寄せていた女・ぎんと話していた真田が、彼女が去ろうとした瞬間、松永の遺骨に一瞬、手を伸ばしかける。死んだ松永に対してすら悪態をつき続けていた彼の、こうした無意識的な刹那に見せる愛情が、何とも沁みる。あの沼にしても、風にさざ波を立てて煌めく水面が何度か映し出されていた。こうした、汚濁や悪態の中にも無言で閃く詩情こそ、この作品の美点だろう。
この無言の美学が、後の、例えば『醜聞』などではあからさまに「お星さま」とか何とかいうベタな表現に堕ちてしまうのが、黒澤作品の残念な所。
また松永が見る夢だか幻覚だかの場面では、海辺で棺を叩き壊したら中から自分が出てくる、というシュルレアリスティックさよりも、その分身に追われる松永と、分身とをそれぞれ別個のショットで交互に捉えながら、最後に二重露光で二つを重ね、イメージの上では死に追いつかれてしまっている様を見せるという、二段重ねのイメージ演出を為している辺りに巧さを感じる。
因みに、劇中のジャングル・ブギは黒澤さんが作詞したという事なので、たぶんそれなりに思い入れの有る場面だったとは思うんだけど、今観ればやはり、あの歌い手の純和風な顔立ちは殆ど冗談みたいに思えてしまう。そうした時代性も含めて、面白いんですが。歌っている笠置シヅ子は当時「ブギの女王」と呼ばれていたようで、嗚呼、何だか時代だなぁ。
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