[コメント] ベリッシマ(1951/伊)
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ヴィスコンティ後期の作品では、どろどろして歪んでしまった人間の悲哀が中心だが、初期の作品では素直な愛の形をストレートに扱っている。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」では男女の愛、「揺れる大地」では家族の愛、そして「ベリッシマ」では母娘の愛というように初期の3作品は愛の三部作と言えるだろう。ヴィスコンティで好きな作品を3本挙げろと言われたら、自分は真っ先に初期の3本を思い浮かべるのは、やはりわかりやすくて真っ直ぐで、共感しやすい内容だからだろう。自分の子供が笑われる屈辱に思わず涙し、高額の契約料よりも娘の幸せを選ぶ母の姿に心打たれた。
しかし映画を観て、一つだけ疑問が残った。それは、なぜモンゴメリー・クリフトがいいと言ったり、バート・ランカスターがいいと劇中で言うのか、という点である。もちろんヴィスコンティの趣味であることに間違いはないのだろうが、それを敢えて挿入する理由がわからなかった。ただ単に主人公がいい男に目がないだけなのだろうか?スターへの未練をまだ捨てられないからなのか? しかしある日、『陽の当たる場所』を見ていてあることに気がついた。「ベリッシマ」で主人公から金を騙し取るスタッフらしき男は、モンゴメリー・クリフトによく似ていたのだ。モンゴメリー・クリフトといえば細い顔に太いまゆ毛が特徴で、まさにタイプ的にはピッタリである。そう考えて夫の方を見れば、どことなくバート・ランカスター風のがっしりしたタイプではないか。
つまり、映画中盤で主人公が「モンゴメリー・クリフトがいいわ」と言うのは、夫よりもあの男のいる世界に気持ちが向いている事を現しており、男そのものというよりもスクリーンの向こうにある夢の世界に対する憧れみたいなものを象徴していたと思われる。広場で上映される「赤い河」で、カウボーイが河を渡るシーンが出てくるが、これは彼女自身が向こう岸へ渡りたいという願望の現れでもあったのだ。結局主人公はレストラン裏の川の手前まで行くが一線を越えることなく引き返し、ラストで自分を取り戻す。そして最後に主人公は夫に「バート・ランカスターがいい」と告げるのだが、これは外の世界ではなく、バート・ランカスターっぽい夫と娘のいる家庭にこそ自分の幸せがあるのだという意味が含まれていた、と解釈した。
庶民の中にある誇りや愛を描いた人間賛歌であり、ヴィスコンティの作品では異色だけど、素直に心に響く暖かい映画である。母親が子供を思う気持ちに、貧しさや身分の違いなど関係ないのだというヴィスコンティのメッセージが感じられた。
追記:今日ひさしぶりに見たのだが、映写室で子供を笑う場面で監督だけは笑っていないことに気づいた。ここにヴィスコンティの監督としての矜持が込められていたのに、それを今まで見過ごしていた自分を笑ってやってください。(2011.11.7)
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